VOCAL BOOTH
元GARO・大野真澄
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東海愛知新聞 連載
第10回 「GARO」の音楽を伝え続ける
東京に移り住んで四十八年。故郷・岡崎での生活は十八年。それなのに、事あるごとに僕の心は岡崎へ帰ってしまいます。小さい頃、よく遊んだ空き地や公園、数々のお寺、賑やかだった康生町、新聞配達をした街並み…。この文章を書く機会がきっかけとなり、改めて懐かしく思い出しては郷愁にかられています。
東京の友人などに岡崎市の生まれだと言うと、語尾に「だがや」とか「みゃあ」を付けてからかわれることもありますが、愛知県以外の人は「じゃん・だら・りん」の三河弁と尾張弁の区別がつかないようです。三河は徳川家康が生まれた土地ですから、家康が移り住んだ江戸は三河弁の影響を受けているのではないでしょうか? 日本の共通語のルーツは三河弁ではないかという説もあるんですけどねぇ…。
そんな岡崎に最近ではコンサートで帰ることもあります。ソロライブのほか、伊勢正三さん(元かぐや姫・風)と太田裕美さんと僕の三人によるユニット「なごみーず」でのコンサートのときは、岡崎市民会館に懐かしい友人たちが観に来てくれたのもありがたかったですね。「なごみーず」に参加できたのも、僕が音楽のジャンルに対するこだわりがないからかなと思います。
デビュー当時から「ロック系」やら「フォーク系」やらとマスコミなどに勝手にカテゴライズされた僕ですが、「ロック」というのはアーティストの思考や価値観、生き方のスタイルなんじゃないですかね。じゃあ、ロック的な生き方ってどういうのか?
外国のアーティストだと破滅型、性格破綻者のオンパレードという印象がありますけど、要するに感受性が強く、傷つきやすく、協調性がないくせに自分を主張する。わがままだけど妙に優しかったり、と思えば突然、何かにのめり込んで出てこられなくなったり。ちょっと不良っていうイメージだけれども、一本筋がちゃんと通せる人。簡単に言うと、自分の意志を持って自分らしく生きて自己の追究も忘れず、強く生きたいと願うが、そのぶん悩みも多い。ということでしょうか?
でも、そんな分類や定義など、もうどうでもいいんですよね。僕は音楽が好きなんです。歌を唄うことが大好きなだけなんです。
一昨年の十二月、「ガロ」のマーク(堀内護)が六十五歳で亡くなったとき、僕の脳裏には「ガロ」解散までの青春時代の五年という日々が走馬灯のように巡りました。努力型のトミー(日高富明)と天才肌のマークの間で、僕は二人から音楽の何たるかの多くを学びました。トミーが逝ってから三十年近く経ち、そしてマークも旅立ってしまいました。
僕は二人が残した、「ガロ」が本来めざした、そして伝えたかった音楽が正しく評価されることへの使命を強く感じ、彼らの遺した素晴らしい作品たちを新たな気持ちで世の中に問い、伝え続けていこうと誓ったのです。
岡崎の皆様、これからもどうぞよろしくお願い致します。(了)
◆東海愛知新聞 2016年6月25日 掲載
第9回 満員の「還暦スペシャルライブ」
「ガロ」はシングル十二枚、アルバム八枚を世に送り出し、一九七五年末に解散。僕はソロ活動を開始し、吉田拓郎や風などのツアーに参加しました。同時に作家活動も始め、一九七六年の夏、あおい輝彦さんに提供した『あなただけを』(作詞担当)がヒット。おかげで当時はソロでもなんとかやっていけそうな気がしました。裏方としてディレクターの仕事も始め、内田裕也さん、原田芳雄さん、三浦友和さんらのアルバムにスタッフとして参加したのも良い思い出です。
一九八〇年代には大野轟二(おおの・とどじ)と名乗った時期がありました。親父の意向で変えたわけですが、亡くなるまで僕を「轟二」と呼んだことは一度もありませんでした。やれやれな話であります。
一九八〇年十二月八日、ジョン・レノンが殺害されたという知らせは全世界に衝撃をもたらしましたが、僕も生き方の指針や価値観など、とても影響を受けたアーティストだったので、一時は茫然とした日々を送りました。三十一歳になったばかりの頃です。
その後は日夜、スタジオにこもって制作に励む日々が続いたのですが、一九九六年に歌手活動を再開。二十世紀最後の二〇〇〇年には、アルバム『平凡なこと』も発表しました。
歌手生活の長い冬眠から目覚めて活動を再開して以来、北海道から沖縄まで多くの地へ出かけては、たくさんの方々に僕の歌を聴いてもらえるようになりましたね。やはり、音楽は“ライブ”という生の現場が一番。生の音や空気感、汗、歓声などの迫力は最高なんですよ。
二〇〇三年には映画『釣りバカ日誌14 お遍路大パニック!』に出演し、劇中でガロ時代の楽曲『悲歌(えれじぃ)』(アルバム『吟遊詩人』に収録)を弾き語りしました。二〇〇六年には、僕が監修を担当したDVD付きCDセット集『GARO BOX』が発売。収録された過去の映像のほとんどは僕が自宅で録画し、保存しておいたもので、独自の記録・収集癖が役に立ちましたね。今もガロを好きな方々が多くいてくださるのは、本当にありがたいことです。
二〇〇九年一月には七〇年代の名曲をカヴァーしたアルバム『Vocal’s Vocals』を発表。その年の十月二十八日には東京・赤坂ブリッツにおいて、なんと還暦ライブを行うこととなりました。「大野真澄 還暦スペシャルライヴ AS NOW~WHEN I'm 60~MASUMI OHNO WITH THE ALFEE」というタイトルです。アルフィーは僕がガロ解散後のソロ活動に入った頃、当時の所属事務所の後輩だったこともあり、ライブの際には彼らにサポートをお願いしていたという縁もありました。
過ぎてみれば六十年なんてあっという間でしたが、満員のお客さんの前で唄うのは、とても気持ち良かった。還暦ライブのステージでアルフィーのみんながプレゼントしてくれたのが、真っ赤なエレキギター。大切な宝物となりました。
◆東海愛知新聞 2016年6月24日 掲載
第8回 「キャロル」矢沢永吉との出会い
上京してずいぶんと長い時間が経ちました。その間、さまざまな人々と出会い、友になり語らい、お世話にもなりました。その中でも特に強烈な出会いと印象が残る話を紹介しましょう。
「ガロ」のデビューから二年後の頃です。「ガロ」のプロデューサーだったミッキー・カーチスさんから、ある日「聴いてほしいデモテープがあるんで来てくれないか?」と電話があり、レコード会社のオフィスへ出かけました。そのテープを聴いたとたん、僕が「カッコイイですねぇーッ!」と声をあげると、ミッキーさんは「だろー? ビートルズ好きのボーカルなら絶対気に入ると思ったんだ!」と。
まだ歌詞のない英語だか何だかわからない言葉で唄う「キャロル」というグループの印象は、新鮮ですごく衝撃的だったのを覚えています。興奮した僕は自分たちのグループのことはそっちのけで、友人たちに「キャロル」を聴かせまくりました。
一九七二年十二月二十日の「キャロル」デビューの日、新宿のライブハウス「サンダーバード」は超満員でした。マスコミや音楽関係者、当時の名だたるミュージシャンたちで熱気も最高潮。そのステージに最初に立ったのは、なんと僕だったのです。ミッキー・カーチスさんからの依頼で、ぜひとも「キャロル」の素晴らしさと今後の期待などをお客さんに紹介してほしいとのこと。快く引き受けたのですが、はたして彼らが前評判通りの演奏をしてくれるだろうか?という不安もありました。
しかし、演奏が始まって音が出た瞬間、そんな不安は一瞬にして吹っ飛び、生のサウンドのタイトさとパワフルで迫力ある演奏に度肝を抜かれたのです。当然、客席も大喝采でウケにウケまくっていましたね。
ライブ終了後、僕がトイレで手を洗っていると、鏡の中に黒の革ジャン上下にリーゼントというステージのままの矢沢永吉の姿がありました。彼は「初めまして、矢沢です。今日はありがとうございました」と挨拶しました。荒っぽくハードなイメージとは裏腹の礼儀正しさに、ちょっと戸惑いましたが、僕も「いや、どうも! すごく良かったよ!」と。すかさず彼が「今日はこれからどうするんですか?」と聞くので、僕は「明日早いんで、もう帰るけど…」。そしたら彼は「今から遊びに行ってもいいですか?」と言うのです。僕は一瞬、えっと思いながらも「ああいいよ!」と答えていました。
矢沢永吉は知り合ったその日のうちに、遠慮なく僕の部屋に遊びに来たわけです。これが今日に至る付き合いの始まりでした。彼は同じ年齢ということもあってか、会ったその日からタメグチで、二言目には「俺たちは、すぐにお前ら(ガロ)を超えてやるからなッ!」などと言うのですが、物言いのハッキリした彼に新鮮さと、ある種の爽やかささえも感じ、いい友達になれるかもと直感したのです。まさかそのときは、今日あるような存在になるとは思ってもいませんでしたが…。
◆東海愛知新聞 2016年6月23日 掲載
第7回 「学生街の喫茶店」が大ヒット
一九七〇年十一月下旬。「GARO(ガロ)」が、マーク(堀内護)、トミー(日高富明)、そして私ボーカルこと大野真澄の三人で結成されます。「ボーカル」という僕のニックネームは、「セツ・モードセミナー」にいた頃、友人から「君は高校時代、バンドで唄ってたんだって? じゃあ『ボーカル』だ」と、いとも簡単に付けられてしまったものです。
ちなみに「ガロ」の名付け親は、当時の渡辺プロダクションのマネージャーで僕らの世話人でもあった中井國二さん。ご自分の子どもができたら付けようと思っていた「我郎(がろ)」という名前をいただいたものです。結局、女の子が生まれたのでバンドの名前にしちゃえと。
翌年十月にデビューシングル『たんぽぽ』、そしてファーストアルバム『GARO』を発表。当時の僕らは、フォーク系の人たちとはめざす音楽性が違うなと思っていたのですが、アコースティックギターで演奏しているという形態のみで「フォーク系」というレッテルが貼られ、三人とも何か違う流れの中に入れられてしまったんじゃないか?という思いが強かったのを覚えています。自分たちの音楽は「ロック」だと思っていましたから。
しかしながら一九七二年二月には、当時、日本でも絶大な人気を誇っていたアメリカのロックバンド「C.C.R.(クリーデンス・クリア・ウォーター・リバイバル)」のオープニングアクト(前座)をやらせてもらいました。特に日本武道館での公演は前座という立場にもかかわらず、最大級の声援と賛辞をいただきましたから、グループの士気もおおいに盛り上がり、溜飲が下がったものです。
その年の六月に発表され、後に僕らの最初のヒット曲となる『学生街の喫茶店』は、最初は三枚目のシングル『美しすぎて』のB面でしたが、発売の半年後ぐらいから北海道の有線放送で火がつき、その後、A面とB面を入れ替えて発売されることになりました。それまで『学生街…』はステージで演奏することもほとんどなかったので、当時の僕たちは唐突な話に唖然とするばかり。でも、僕らの戸惑いや苛立ちをよそに、『学生街…』はヒットチャートをジリジリと上昇していったのです。
そして一九七三年三月。とうとう『学生街の喫茶店』は『オリジナル・コンフィデンス』誌のシングルチャートのトップに立ちました。しかし、ほぼ同時期に僕は十二指腸潰瘍で倒れてしまい、約一か月の入院を余儀なくされたのです。病室で観るテレビの音楽番組で『学生街…』は一位。僕はベッドに横たわったまま、さまざまな番組に出演する二人組のガロを複雑な思いで観ていました。テレビでは僕以外の二人が唄う『学生街…』、ラジオから流れるのは僕の声。
その年末の「日本レコード大賞」では大衆賞を受賞し、「第二十四回NHK紅白歌合戦」にも出場しました。その後、僕らは二年にわたり、時間に追われる余裕のない日々を送ったのです。
◆東海愛知新聞 2016年6月22日 掲載
第6回 舞台「東京キッド」に役者として立つ
一九六九年一月。十九歳になった冬のある日のことです。後にイラストレーターとして活躍した「セツ・モードセミナー」の友人ペーター佐藤が、新しい劇団のポスターを描いたというので観に行ってみました。「キッド兄弟商会」の旗揚げ公演『交響曲第八番は未完成だった』という芝居で、場所は新宿の花園神社の近くにあった小さなライブスペース「パニック」。劇団「天井桟敷」(主宰・寺山修司)にいた東由多加さんが作った劇団でした(後に「東京キッドブラザース」と改名し、柴田恭兵さんが同劇団のスターとなりました)。
終演後、僕の噂をどこで聞いたのか、「君はビートルズの歌を全曲唄えるんだって? 一緒に芝居をやらないか?」と東さんに誘われ、その年の七月には二作目の舞台『東京キッド』に役者として出演しました。その公演をブロードウェイで大ヒット中のロックミュージカル『ヘアー』の日本版スタッフが観に来たこともあって、九月に行われたオーディションを受けて合格し、十二月には渋谷東横劇場で上演された『ヘアー(日本版)』の舞台に立つことに。
まさに激動の一九六九年でしたね。時代はベトナム戦争まっただなか。『ヘアー』は「何ゆえ人は生まれ、そしてどこへ行くのか? 何のために誰のために生き、そして死ぬのか?」と、反戦をテーマにしながらも、人間のさまざまな問題を提起しながら展開していく奥深い物語でした。エンディングでは主人公の戦場死を問うのですが、その意味が見いだせず、もどかしさを残したまま終わります。それでも僕らに太陽はいつまでも輝き続けるし、輝き続けてほしいと切に願う。人間は太陽のもと、自然との関わりの中で生を育んでいるのだからと…。
ラストに唄う『アクエリアス』『レッツ・ザ・サンシャイン』は、今でも思い出深い楽曲です。同時に、僕が子どもの頃によく父や祖父から聞いた「戦争中“お国のため”だからと、まともなことや価値観、人間さえもがデタラメになってしまった」という言葉を思い出しました。時代が目まぐるしく変わっていくのを感じるとともに、時間の流れがとても密で長く思えた時期でもありました。
翌年の夏、友人のライブを観に行こうと六本木の交差点近くを歩いていたとき、大きな外車が停まり、中から顔を出したのは、なんとスパイダースのかまやつひろしさん。当時の大スターです。「僕のバックコーラスをやってくれる人を探しているんだけど誰か知らない?」
かまやつさんは『ヘアー』の楽屋に何度も訪ねてこられたので知ってはいましたが、突然のことで驚きました。僕は「今から友達のライブに行くんですけど、彼らはコーラスが得意らしいので伝えておきますよ」とだけ答えたのを覚えています。
彼らとはマーク(堀内護)とトミー(日高富明)。後の「ガロ」のメンバーです。そのときはまさか僕もメンバーになるなどとは、想像もしていなかったのですが…。
◆東海愛知新聞 2016年6月21日 掲載
第5回 美術学校「セツ・モードセミナー」に入る
高校の卒業後の進路を決める時期になると、担任から地元で就職しろと言われ、気乗りしないまま薦められた会社の面接へ行きました。が、全く興味のない業種なので断ってしまい、先生に叱られましたねぇ。
実はその少し前に、大橋歩の描く表紙で有名な雑誌『平凡パンチ・デラックス』に特集された長沢節の作品と出合いました。見たことのない線画のタッチ!! 長沢節は独自の美学をもとにファッションイラストを確立した人で、美術学校「セツ・モードセミナー」の創設者でもあり、すでに芸術の世界では伝説的な存在でした。そして、僕の頭の中は「東京のセツに入る」という一念だけとなりました。
僕が岡崎を離れたのは一九六八年のこと。一人暮らしを始めたのは新宿に近いけれども静かな所で、小さな公園の脇に建つ木造アパートです。六畳一間に半畳の台所、トイレは共同、風呂なしで七千円。それでも相場より高めの部屋でした。
「もう岡崎に帰ることはないだろう」と心に誓った東京での最初の夜。荷物も解いていない部屋は、やけに広く感じました。布団に横になると急に寂しさが募り、知らぬ間に涙がこぼれていましたね。
「セツ」の建物は細長い六階建ての瀟洒な造りで、近所の中でそこだけパリのような雰囲気でした。「セツ」では先生も生徒も“自由”を尊重する精神が徹底しています。すべては自分の中にあり、自分から生まれる。好きなように描けばいいし、描かなくてもいい。自由に語ればいいし、生きることを楽しめばいい。そして、一見すると無秩序な雰囲気ながらも、ちゃんと“和”が存在している。「セツ」は自由と勝手とをはき違えることのない大人の空間でした。
授業は実技がメインで節先生と一緒にひたすらデッサンし、クロッキーや水彩画も描きます。他の講師も自分の経験や人生論をしゃべるだけ。ここは学校なのか? そのうち生徒は半数以下に減りました。
でも、節先生は描いた絵が溜まると批評会を設けてくれました。その場で展開されるのが独特の“長沢節ワールド”。が、口を開けばオネエ言葉でした。
「弱者優先の福祉社会で、男がバカの一つ覚えみたいに強そうな格好をしてたら、とんだお笑いかシラケちゃうかよね。じゃあどうすればいい? その見本が“女”なのよ。男社会の歴史の中で女こそが弱者の美学を確立し、生き方の真の賢さを示してきたわけ。つまり、優しさは必ず強さを打ち負かすのよ」
上京したての十八歳の少年は、「男と女の垣根なんか取っ払いなさい」などと説かれて戸惑いつつも、偏見がなく説得力あふれるオネエ言葉と表情にすっかり魅了され、お洒落で素敵な長沢節の世界に心酔したのです。
節先生は八十二歳のときに不慮の事故で急逝されましたが、僕の価値観や人生観が形成され、「ボーカル」という呼び名が定着したのもセツの時代。人生の大きな礎であり、今も感謝の気持ちでいっぱいです。
◆東海愛知新聞 2016年6月19日 掲載
第4回 高2のとき、ビートルズを「生で観た」
高校は名古屋市にある愛工こと愛知工業高等学校のデザイン科に入学しました。開校は明治期で、デザイン科は僕の生まれる前から図案科という名で存在していましたから、県立のデザイン系では歴史のある所でした。
小さいときから絵を描くのも大好きで、『鉄人28号』などの漫画はどれだけ模写したことか。鉛筆画、特に色鉛筆のタッチが今でも好みですね。
僕が受験したときのデザイン科の倍率は二倍で、親父からは「不合格なら左官になれ」と言われていました。めでたく合格したのはいいのですが、通学は電車とバスを乗り継がねばなりません。毎朝四時に起きて朝刊を配達してから東岡崎駅へ。名古屋駅に着いたらバスに乗り換えて学校には八時四十分に到着。
通学時間はギューギュー詰めで、かろうじて本が読める程度でした。その頃に読んだのはテレビドラマ『青春とはなんだ』の原作とか、石坂洋次郎の『光る海』や『陽のあたる坂道』とかの青春ものでしたね。
高二のとき、待ちに待ったビートルズの日本公演がありました。三日間の公演のうち、僕は最終日に岡崎から一人で会場の日本武道館へ向かいました。忘れもしません、開演は一九六六年七月二日の午後六時三十分、席は西スタンドのFの十四番。
コンサートの模様は前日にテレビで観たのですが、「ダラダラした演奏だな~」なんて思ったものです。当日は感激のあまり胸が震え…ってなこともなく、演奏なぞ歓声がうるさすぎて全く聴こえなかったし、ステージも遠すぎて「あ、本物のビートルズらしき人たちがいる」「髪が茶色だッ!!」という程度。今となれば「生で観た」、ただその事実のみに価値があるわけです。
そして、高三の十月には芸能誌『月刊明星』による「タイガースと夢のデート」という企画に、二万人以上の応募者の中から当選! メンバーと一緒に食事したり、彼らの合宿所に泊まったり、テレビの公開録画の見学をしたり(この番組は僕が後年に「ガロ」として出演したこともある『象印スターものまね大合戦』でした)。芸能人を初めて間近にして、「なんてきれいな人たちなんだろう(特に沢田研二さん)」と思ったことが鮮明に記憶に残っています。
同時期に僕は音楽仲間と「ダウンハーツ」という名のエレキバンドを結成し、翌年の二月頃までハコバンドも経験しました。ハコとは箱(=店)のことで、専属契約を結んで演奏するバンドを指す業界用語です。メンバーは五人でギター二台にベースとドラム、僕がボーカル担当。一宮にあった「ユニバース」というゴーゴークラブでロックやグループサウンズの曲を演奏しました。一晩に四回のステージがあり、一回につき約三十分。ギャラは日当で千八百円。なんとこの金額は五人分です! 毎回、交通費と焼きそば食べてオシマイでしたね。
それでも、お客さんに演奏がウケるとうれしいし、ステージに立つ喜びや心地よさを体感した場でもありました。
◆東海愛知新聞 2016年6月18日 掲載
第3回 ビートルズを聴いて音楽観一変
洋楽を知る までの僕は、もっぱら子ども向けドラマの主題歌や歌謡曲に親しんでいました。『月光仮面』や子役時代の吉永小百合も出演した『まぼろし探偵』、山城新伍の 『白馬童子』、三橋美智也の『怪傑ハリマオの歌』とか。当時、流行っていた『古城』や『夕やけとんび』、曽根史朗の『若いお巡りさん』、若原一郎の『おー い中村君』はもちろん、井沢八郎の『あゝ上野駅』もレパートリーでした。
一番好きだったのは坂本九です。『悲しき六十才』『ステキなタイミング』『見上げてごらん夜の星を』等々、いい曲がたくさんありますよね。僕が初めて買ったレコードは『上を向いて歩こう』でした。
洋楽に触れた最初は、僕が小学三年の頃に親父の弟が聴いていたジーン・ヴィンセントにポール・アンカやニール・セダカ。でも、熱心に聴き始めたのは一九六三 年の春、中二のときからです。姉の好きなラジオ番組を僕も聴くようになったのですが、それが高崎一郎の「キャンディ・ベスト・ヒットパレード」でした。
この番組では毎回、洋楽のヒットチャートを紹介します。僕は八月からランキングをノートに記録するようになりました。六〇年代初めの代表曲で好きだったの は、英国のインストゥルメンタル・バンド、トーネイドーズの『テルスター』、ニニ・ロッソの『さすらいのマーチ』、カスケーズの『悲しき雨音』、ビーチ・ ボーイズの『サーフィン・U.S.A.』等々…挙げるとキリがないですね。洋楽ポップスに熱中するようになったことで、海外のいろんなアーティストから多大な影響を受けました。
ビートルズの音楽を初めて耳にしたのは、ランキング十九位で初登場した『プリーズ・プリーズ・ミー』。一九六四年一月三十一日の金曜日、午後八時過ぎのことです。彼らのイギリスデビューから一年以上も経て、ようやく日本に届いたのでした。
今まで聴いてきた音楽と全然違う!! ものすごい衝撃でした。大げさではなく、うちのラジオがビートルズの曲を送り出した瞬間、十四歳だった僕の音楽観は一変したのです。
ただし、僕が触れたのは彼らの音だけでルックスもわかりません。レコードジャケットではなく、ちゃんとしたビートルズ四人の顔が見られたのは、音楽誌 『ミュージック・ライフ』四月号の表紙写真でした。同年の夏には映画『ハード・デイズ・ナイト(ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!)』も公開さ れ、動くビートルズを観てますます熱狂してしまいました。
僕は中学三年の秋の学園祭のときに同級生と三人で、ビートルズの『イフ・アイ・フェル(恋に落ちたら)』と『オール・マイ・ラヴィング』をリズムのみのアカペラで唄ったという想い出もあります。
ヒットチャートを書き留めたノートは青春時代の宝物。今も僕の手元にあり、色褪せはしましたが、開くたびに六〇~七〇年代の名曲の数々が生き生きとよみがえります。
◆東海愛知新聞 2016年6月17日 掲載
第2回 小4から高3まで続けた新聞配達
僕は小学三年から中学生の頃まで左官の仕事を手伝いました。小柄だったので重たい砂運びやネコ(一輪車)を操るにも難儀したし、砂を“ふぐう”(ふるいにかける)のも重労働でした。
小四のときには新聞配達のアルバイトも始めました。姉と共有ではない自分専用の自転車が欲しくなったからです。わが家には親にねだれば何でも与えてくれるような余裕はなく、またそうした時代でもなかったし、自分のことは自分で、それが当たり前だとも思っていましたね。
冷たい雨や雪の日でも朝の四時半に起床し、自転車で配達して回りました。僕の担当地域は岡崎公園前駅の周辺で、かつては花街だった板屋町や八帖南町あたりの六十軒前後。八丁味噌の店には配達しなかったなぁ。六時頃に帰宅して登校までの間は、最新の歌謡曲を流すラジオ番組が楽しみでした。江利チエミや村田英雄とかね。
新聞少年を始めた頃のバイト代は、朝夕刊の配達で一か月に千二百五十円。断続的ながら高校三年まで頑張りました。
小三から習い始めた書道では五段の上の特待生にまで昇段したのですが、小学校を卒業する頃にはやめてしまいました。真面目に修業を重ねた姉は、岡崎の地で書家として活動を続けています。
僕が十一歳のときには相撲の大鵬が初優勝し、その翌年には読売巨人軍が日本シリーズを制覇しました。「巨人・大鵬・卵焼き」が流行語となったあの頃、長嶋茂雄は実にカッコよかった! 名古屋に近い地域に住んでいてもジャイアンツのファンでした。
今では大好きだったプロ野球中継すら、さっぱり観なくなりましたが、野球少年の頃の僕は町内対抗のソフトボール大会ではピッチャーをやるなど運動神経は良いほうで、体力テストでは一級のバッヂをもらったんですよ。
甲山中学校ではテニス部に入りました。野球よりカッコよく見えたからですが、まだ球拾い専門の頃に先輩がやたらとラケットで太ももを殴るので、ほとほとイヤになって半年ぐらいで退部です。
中三の秋には修学旅行で東京へ。十月に東京オリンピックが開催された直後で、東海道新幹線も開業したばかり。でも、僕ら中学生が乗せられたのは修学旅行列車でした。
幼い頃から乗り物が大好きだったからか、自動車・電車・船・飛行機など種類を問わず、酒以外で酔うという感覚がわからない。叔父が名鉄のバスの運転手だったので、運転席の近くに座りたくてよくバスに乗りました。岡崎に路面電車が走っている頃は康生町の交差点から終点まで、ただ乗っているだけでワクワクしたものです。自転車ではしょっちゅう蒲郡まで出かけました。トンネルが珍しくて走り抜けるのが面白かったからです。電車に乗って名古屋のスケートリンクにもよく行きましたね。
今思うと一人で行動することが多い子どもでした。家業の手伝いや新聞配達、遊びなど何やかやと大忙しの毎日で、勉強するヒマなんてありませんでしたねぇ。
◆東海愛知新聞 2016年6月16日 掲載
第1回 名前は流行歌「丘を越えて」から
僕が生まれたのは一九四九年の十月で、東京へ出る十八歳までを岡崎で過ごしました。当時は岡崎駅よりも東岡崎の駅前が賑わっていて、そこから程近い中町に僕の生家がありました。うちは左官業で祖父母に両親、父の弟妹、僕ら六人きょうだいに加え、数名の従業員も同居という大所帯。左官業を始めたのは農家から転身した祖父で、戦後の一時期、「くど」という当時では最新の“かまど”を創作するなどのアイデアマンだったようです。
親父は職人ですが、気性の激しい人ではなく穏やかでしたね。十何年か前に上岡龍太郎さんに会ったとき、「岡崎の飲み屋で君のお父さんに会ったよ」と言われ たことがあります。なんと父は上岡さんに向かって「ガロのオヤジです」と挨拶したとか! 親父はあまり冗談などを言うほうではなかったですが、歌はうまかったですね。岡晴夫とかフランク永井の流行歌をよく口ずさんでいました。僕の「真澄」とい う名も当時、流行していた『丘を越えて』の歌詞にある「♪真澄の空は朗らかに晴れて…」から取ったと言ってました。僕が生まれた日の朝は抜けるような青空だったからだと。
母は家業の手伝いと毎日の家事に追われていました。祖母と二人で大人数の食事作りは本当に大変だったと思います。
一九五六年四月、僕は根石小学校に入学。当時は木造の二階建て校舎で僕の学年は五クラスあり、団塊の世代ですから一つの教室に五十五人も詰め込まれていましたねぇ。休み時間になると馬跳びやドッヂボール、竹馬など遊びも真剣でした。
放 課後は家の近所の空き地や公園、寺の境内で「ドロジュン」という遊びに明け暮れたものです。地方によっては警察と泥棒の略で「ケイドロ」「ドロケイ」とも 呼ぶそうですが、岡崎では泥棒と巡査ですよね。三河別院の鐘つき堂の石垣から飛び降りる遊びもしたなぁ。時にはザリガニを釣りに東公園の釈迦堂の池へ、時 には水晶を探しに水晶山まで遠征しました。
夏になると両岸が砂地の矢作川で泳ぎの練習や川遊び。その時分は水もきれいで、「矢作川の家」という催しもありました。冬は今よりずっと寒く、手足はしもやけ・あかぎれで腫れ上がり、痛くてたまらなかったし、鼻も真っ赤でしたね。
わが家にテレビが来たのは一九五六年で、初めて観たのは国会中継。僕は『私の秘密』や『ディズニーランド』という番組が楽しみでした。
僕が十歳になる直前の一九五九年九月二十六日の土曜日。明日は運動会という前夜に台風十五号が上陸しました。強風が深呼吸するかのようにヒューとかフゥー という不気味な音がして、家が吹き飛ばされるかもと思ったものです。僕らはロウソクの灯りのそばで恐怖に震えるばかりでした。翌朝、二階へ上がってみると 天井に丸太が刺さっていました。向かいの倉庫が倒壊して木材が突風で飛ばされ、僕の家の屋根を突き破ったのです。この台風が歴史に残る伊勢湾台風でした。
◆東海愛知新聞 2016年6月15日 掲載