〇〇なこと

第44回“万博のコト”

2005.5

 今回は前回に引き続き「FORK AID」の続編をと思っていましたが、友人の常富喜雄さんが、彼のホームページ「アンブレラ・ミュージック」(http://www.e-sedai.com/)の“常やんライブるぽ”で、コンサートの内容などが詳細に書かれていますので、そちらを見てもらえれば、前回の続きだけでなく、当日の楽屋風景、コンサートの内容など改めてごらんいただけると思いますので是非そちらにアクセスしてください。ちなみに文中にあるビートルズをハモリ出す人というのは、僕とアルフィーの坂崎幸之助のことであります。

 さて、今年は3月25日から、我が愛知県で、愛・地球博と名うった万博が開かれている。

 このリバーシブルの故郷「岡崎」からは会場も、ごく近いということで、こらから行く人も多いだろうし、もうすでに行かれた方もいることと思います。万博といえば1970年、僕が20才の頃、日本初のハイジャック事件(よど号ハイジャック事件)が起きた直前の3月14日に開幕した「大阪万博(人類の進歩と調和)」と、丁度20年前の3月17日に開幕した「つくば科学万博」が思い出されます。そういえばその間の1990年に「花博」というものもありましたね。

 で、大阪万博には2度だか3度だか“会場”に行きましたが定かではない。実は友人が、どこかのパビリオン(当時は聞いたことのない言葉で意味もわからずパピリオンだとかバビリオンだとか、適当に使っていたように記憶している)で、働いていて、その友人の友人がオーストラリア人で、彼らの宿舎に僕も泊まり込ませてもらっていた関係で、入場ゲートから料金を払って入った記憶がないし、「月の石」を見た記憶もない。ただ、お祭り広場の巨大さとその真ん中にそびえ立つ、岡本太郎の「太陽の塔」の不思議な形に疑問を持ちながらも、その意味を聞くことも、考えることも、そして理解することもないままに毎回会場をあとにしていた。現在、当時は見られなかった塔の内部が公開されていて、地球の歴史や未来を暗示するような岡本太郎作のオブジェが多数展示されているとのことで、機会があったらぜひ、観に行きたいものであります。

 それにしても、どのパビリオンにも長蛇の列が出来ているし、どこに行っても人はいるしで気分が滅入ってしまって結局、それらに入った覚えがなく、よって当然のことながら「月の石」など見ている訳がないのである。せっかく何度も足を運んだのに、今考えれば勿体ない話でもあります。しかし終了時に発表された入場者数は6700万人だったということだから、結局入場した人達み~んなが、かつて見たことのない程大量の人間が1ヵ所に集まっていた現実を見に行ったということだったのかも知れません。とはいうものの人の沢山いる場所というのは気持ちがワクワクして浮ついた気分になってしまうのはなぜなんだろう?などと思いつつ反面滅入っていた僕がいたのも事実であります。全く不可解な人間がいるもんです。(僕のことですが…。)

 そして時は流れて1985年。科学万博。

 どういう訳か大阪万博に関しては、まぁ、ある程度は、なつかしい感じはするのだが、科学万博に関してはすでに20年の歳月が経っているというのに1985年なんて、ついこの間のことだよって感じてしまうのは、多分同世代の人になら解ってもらえるかと思いますが、年齢とともに起こってくる現象であります。

 実は大阪万博には何の目的もなく行ったのですが、科学万博には、大きな目的がありました。

 「マイルス・デイヴィス」のコンサートです。多分このコンサートがなければ、科学万博には行かなかったかも知れない。大のマイルス・ファンである友人の安田さんに誘われてマイルス初体験をしに行った訳です。ジャズ界の巨星で、勿論その存在はロック・ポップスファンの僕でも、十分知っていたし、又、晩年になってからも音楽界における、その存在感は他を寄せつけない程の超重量級のアーティストとして君臨していた。

 そんな、ある意味ではビートルズでさえも足元にも及ばない「マイルス」を生で見られるというのだから、こんな機会は、そうそうあるものではありません。しかも肉体的にはそろそろ限界が近くてもう二度と観ることが出来ないかも知れないという話を聞いての「マイルス」のステージを体験しに行った訳であります。ということで、マイルス・デイヴィスのライブレポートのような感じになっていますが、何だか今だに経験したこのないような、会場の張りつめた空気が、僕の中の緊張感をさらにあおっていた。ビートルズを観に行った時でさえ感じなかった、この気分をどう表現したら良いのやら…。

 しかしもう、ページがないので「万博のこと」は続く!!


第43回 “FOLK AIDのコト”

2005.4

 ○○なコトを書き始めて今回で43回目。平成13年の10月号からですから、かれこれ3年半になります。毎回、月始めになると、今月は何を書こうかと思い悩んでいます。今回も実は、どうしたものかとあれこれ考えていたんですが、つい先日、3月5日に、東京の渋谷公会堂で行われた、「スマトラ沖地震復興支援チャリティーコンサート ~FOLK AID」について書こうかと思います。

 昨年末にスマトラ沖で起った大地震と津波による被害を受けた方々への支援を目的としたチャリティーコンサートです。

 これは、いわゆるあの時代(フォーク全盛時の70年代前半に活躍した)のアーティスト達が大集合してのチャリティーコンサートです。1月の下旬にNHKで収録された、フォーク特集番組の際に、南こうせつから、「この番組の出演メンバーで、スマトラ沖地震のチャリティーコンサートをやろうじゃないか」との発案で急拠決ったものでした。実は、この番組には、僕自身の出演は無かったのですが、こうせつから、僕にも声をかけてもらい、勿論ふたつ返事で参加を承諾させてもらいました。

 話しは、2月上旬のことだったんですが、こうせつ曰くコンサート迄の時間があまりに短くて、チケットの売れゆきが心配なので、それぞれの出演者が手分けして、手売りをして下さいとのことだった。

 彼自身も当日ステージで言っていたが、せいぜい1000枚(客席数は約2300)も売れれば御の字だろうと思っていたらしい。ところがフタを開けてみれば、チケット発売と同時に即完売で、手売りどころではなくなってしまった。僕も複数の友人に声をかけていたが、結局、枚数分のチケットを入手することが出来ずに申し訳ないことをしてしまった。おかげをもって寄付金もステージ上では、七百数十万円とのことだったが打上げの会場では、物販として売られたチャリティーTシャツなどが完売になり、額はさらに上積みされ、約八百万円を贈ることが出来たとの報告がされた。今回のコンサートに参加協力して下さった皆さんとお客さんに感謝の気持で一杯であります。

 さて、当日の3月5日、僕は大阪から渋谷公会堂に入りました。前日は奈良の河合町で、伊勢正三さん太田裕美さんとのコンサートがあり、当日は大阪泊りでした。こちらのコンサートもチケットは完売でとても楽しいライブが出来ました。そして昼の12時丁度に会場に入りました。今回の出演者は17組ということで、楽屋にはその後も、次々とアーティストがリハーサルの時間に合わせて到着します。ですからかなり大きな楽屋でしたがスタッフは入り切れずに溢れてしまう始末で、何だか始まる前から、熱いものが込み上げて来そうな雰囲気でした。

 そして、発案者の南こうせつは、出演者のこと、スタッフのこと、進行のことなどなどを確認しながら、まさに彼ひとり、目の廻るような忙しさの中でも、あらゆることに気遣う彼の姿には頭が下る思いでありました。しかもステージに上れば司会進行も兼ねていた訳ですから、そりゃーもう大変だったと思いますね。

 そんな中で、僕にとっては、かつてこの音楽業界に入った頃に最初に仕事をさせてもらった人達とも一緒になり、ある意味、もう一度あの日に戻ったように感じた日でもありました。

 一人は、ガロ結成以前に、ミュージカル「HAIR」に出演していた頃に知り合ったかまやつひろしさん。この人とはその後ガロ結成後も大変にお世話になりました。そして、もう一組はトワ・エ・モアの二人です。僕らがGAROを結成した直後、渡辺プロダクションへの所属が内定し、それと同時に同プロダクション所属で当時は飛ぶ鳥を落す勢いで、すごい人気者だったトワ・エ・モアのステージでのバックコーラスとして、約3ヶ月程、全国を一緒に旅させてもらいました。そのステージの中でも15分程の時間を削いてもらい、ガロ独自のコーナーも作っていただきました。約35年の時を経て、久しぶりに、生で聴く変らぬ二人の声に、なんとも言えない郷愁を感じてしまいました。

 そして17組のアーティスト全てが揃うと、楽屋はもう超満員状態。久しぶりに会って挨拶もそこそこに懐しい会話を交す人、携帯の番号を交換する人、弁当を食べる人、ギターの弦を変える人、パソコンを打つ人などなど、開演前の緊張と興奮の中でも、なごやかな雰囲気の楽屋風景がそこにはありました。そしていよいよ開演です。

(敬称は略させていただきました)


第42回“上京した頃のコト”

2005.3

 1968年4月初めの新宿区市ヶ谷富久町「白樺荘」。(2005年になった今も、その木造2階建ての「白樺荘」は、年老いたコンクリートブロックに囲まれた余丁町公園の砂場の脇に当時のままの姿で存在している。)初めての東京一人暮しが始まった。それ以前、東京には、中学三年の修学旅行、高校二年の時、ビートルズ公演を観に、高校三年になると夏休みにユースホステル(市ヶ谷)を利用して美術館や、博物館を巡る3泊旅行、そして、その年の10月には、月刊明星による「タイガースと夢のデート」という企画に2万人以上の応募者の中から当選して、メンバーと会ったり、テレビの公開録画の、見学をしたり(実はこの番組は、僕自身もその後に出演することになった「象印モノマネ歌合戦」だった)そして、食事をし、彼らの合宿所に泊ったりで、初めて間近に芸能人を見るという経験をして、「あ~、芸能人というのは、何て綺麗な人達(特に沢田研二さん)なんだろう」と思ったことが鮮明に記憶に残っている。ということで都合4回の上京の経験はしていたが、「もう、これで田舎に帰ることはないだろう」と心に誓っての東京一人暮し、最初の夜は、ことのほか孤独で寂しい思いにかられていた。

 その13号室、後の「かぐや姫」の唄ではないが、60ワットの裸電球が、ひとつだけぶら下った6畳一間の部屋は、実家で使っていた3畳間と比べると、引越しの荷物はあるものの随分と広く感じた。そして、入口にある半畳程の台所の引き戸を開けると短い土間の廊下は、共同トイレに続いていた。その夜は、荷物を解くことなく布団袋から、布団だけを出して真新しい畳の上に敷いて、わけもなく流れる涙のせいで、ゆがんだ裸電球を見つめながらいつしか眠りに堕ちていった。

 それにしても、過去に経験した東京と、今まさに住みはじめた、ここにある東京との落差に戸惑っていた。実は東京というのは東京駅で降りるとそこには大きなビルで囲まれた駅周辺の風景があるが、それこそが大都会東京で、どこもかしこもそうゆう所ばかりだと思っていたのである。ところが我が富久町界隈の地味な商店街とひっそりとした住宅街を見ると、そこは車の通行量も多くはないし、故郷、岡崎の繁華街と、さ程の変りを感じなくて、かえって親しみすら感じていた。これだったら以外と早く、この街に馴染めるかも知れないと思った。

 舟町のセツ・モード・セミナーには歩いて5~6分で行ける距離であった。当時、周囲は高い建物が無かったせいもあって、部屋を出て住吉町に向う坂道に差し掛ればそこにはもう洒落たフランス風の外観を持つセツ・モード・セミナーが、低い仕舞屋の並ぶその向う側で「俺は、廻りの家とはセンスが違うだろう?」とでも言いたげな雰囲気で気取った姿を見せていた。

 入学式では、外から見たお洒落さとは裏腹の狭い階段で繋がれた校舎には人がひしめいていた。そしてそこで周囲を見回して、妙な違和感を覚えた。入学式といえば当然のことながら同年代の人達ばかりだと思っていたのだが、そこにいるのは男も女も年令も、着ているものも髪の長さも何もかもが「バラバラ」に見えて、僕が過去に出会ったことのない種類の人々の集団であった。その中で高校時代は坊主頭が校則だった僕は、周囲とは全く違っているのではと、気恥ずかしく思ったのだが、そんなことを気にしているのは自分だけで、誰一人として僕の頭に興味など持っているはずもなかったのは当然のことであった。しかしそれゆえに先行の不安を感じていた。

 しかししばらくすると、入学式で感じた違和感こそが、この学校そのものだと思えるようになった。ここでは先生も生徒も、良い意味で気ままで、何でもありで、何があっても無くても、自分は自分、他人は他人、お互いにそれぞれ、どんなことも自分の中にあり、自分から生れ、己が思うがままに、好きに描き又、描かなくてもいいし、そして語れば良いし、生きていることを楽しめばいい。不思議なことに、そんなゴチャゴチャした無秩序とも思える雰囲気の中にもちゃんとした「和」が、存在していることに気付かされた。自由と勝手とをはき違えることのない人達がいた。セツ・モード・セミナーの時代が、僕にとっての人生の大きな礎になっていることは間違いない。そして、今も感謝の気持ちでいっぱいである。


第41回“冬は寒くなくてはいけないコト”

2005.2

 大晦日に降った雪のおかげで、久しぶりに雪景色の正月を味わった。物心ついた頃から、18歳で東京に出る迄暮した我が故郷岡崎では、正月をはさんだ年末年始の時期には、必ず一度や二度は雪の降る日があり、積雪があったように記憶しているが定かではない。

 冬は、やはり寒い方が良い。いや寒くなくてはいけない。雪が降らないといけない。田圃や水たまりには氷がはらないといけない。そしてたまには水道の蛇口が凍って回せなくなっていなくてはいけない。土が固くなって霜柱が立ってなければいけない。

 耳や鼻が赤くなって、手はしもやけやあかぎれにならなくてはいけない。股引をはいて、手袋をして、耳あてもしなければいけない。知らないうちに鼻水を垂らして、涙目にならなくてはいけない。一度は風邪をひかなくてはいけない。穴のあいたくつ下は、母に縫い直してもらわなければいけない。

 冷い雨が降っても雪が降っても、どんなに寒くても新聞配達は6時迄に終わらせて、掘り炬燵に体ごともぐり込んで、テレビのニュースを見なければいけない。朝ごはんは生玉子をかけて、みそ汁で流し込むだけでなくてはいけない。いくらいやでも、集団登校をしなくてはいけない。坂の途中で先生に会ったら挨拶をしないといけない。教室にはストーブがないから、窓はきちんと閉めて授業を受けなくてはいけない。休み時間は、おしくらまんじゅうではなくて、馬跳びでなくてはいけない。天下落しではなくて、ドッヂボールでなくてはいけない。竹馬の踏み台の高さは50cm以上でないといけない。キンタマツブシではきちんと地面に線を書かないといけない。遊びは真剣にやらないといけない。

 いくら名古屋近郊に住んでいるといっても、巨人、大鵬、玉子焼きでなくてはいけない。坂本九のファンでなくてはいけない。しかし、たまには「怪傑ハリマオ」を唄う三橋美智世も聴かなくてはいけない。「古城」や「夕やけとんび」は空で唄えなくてはいけない。「白馬童子」が山城新伍だったり「まぼろし探偵」に吉永小百合が出ているのを知ってなければいけない。そして若原一郎の「おーい中村君」や曽根四郎の「若いおまわりさん」や井沢八郎の「あゝ上野駅」なんかも唄ったりしなくてはいけない。

 無関係なことも書かなければいけない。12月1日には、家族で東山動物園に行かなくてはいけない。名古屋の中川区周辺の年賀状配達を経験しなくてはいけない。そしてビートルズを知るのは1月でなくてはならない。ヒット曲を書くのは寒い時期でなくてはいけない。ヒット曲を録音するのも冬でなくてはいけない。そして、ヒットし始めるのも冬のうちでなくてはいけない。北海道のラジオや有線で沢山かからないといけない。色んな人間関係を克服しなくてはいけない。ゆえに雪が降り積って美しく平穏な風景でなくてはいけない。だから大寒は大雪にならなければいけない。

 冬は寒くなくてはいけない。


第40回 “槍ケ岳登山のコト”その4

2005.1

 夏の出来事を書いているうちに、とうとう12月になってしまいました。過去3回の文章を読み返してみるとずい分ディティールにこだわって書いていることに気付いた。まぁ、その過程であった事をつらつらと書き始めた訳であるが、これをやっているといつまで経っても、槍ケ岳登山が続くことになってしまいそうなんで、少々方向転換を図って書き進めていこうと思います。

 さて、登山2日目は、次の宿泊地双六小屋をめざしたのだが、山というのは登るということだけでも大変な労力を強いられるのだが、それ以外にもたくさんの難敵が潜んでいる訳で、そのひとつの敵である天候の異変にも遭遇することになった。雲ひとつない晴天の青空から一転、突然の雨。まあ、雨だけならまだしも、雷を伴う雷雨である。この登山の直前にも槍ケ岳の隣の大天井岳で、落雷による犠牲者が出ていた事を知っていた僕は、忍びよる不気味な恐怖心と戦っていた。ザックカヴァーを用意していなかった20kgのザックの中へ雨が染み込んでその重量は多分倍近くになっていたに違いない。なんとか無事に宿泊地の双六小屋には着いたが、ザックの中身はすべて雨にやられていた。

 そして、僕にはもうひとつ体にやっかいな異変が起こっていた。頭痛である。聞けば、どうやら高山病にかかったのでは?とのこと。そして、この頭痛は下山するまで僕を悩ませ続けることになった。

 さらに今日の小屋の寝床は、ほとんど押入れのような場所で、4畳程の上下段に何と13~4人が寝るという、すさまじい限りの寝床であったが、それでも超疲労状態の僕は頭痛とともに、いつか眠りに陥ち、気が付けば次の朝を迎えていた。晴天だ。それにしても、この例えようのない爽やかには“え”も言えぬ程の感動を覚えた。

 そしていよいよ今日3日間は目ざす槍ケ岳への3180mの穂先への挑戦の日である。晴天に恵まれ峰づたいに歩き続ける、僕の足は一歩間違えば谷底へまっさかさまという登山前には全く聞いていなかった、とてつもなく危険な場所でありました。どちらにしても、いくら頭痛でもいくら疲れていてもどんなに足が重くても、僕には前に進むという選択肢しか無いわけであります。この状況から脱するには他には方法は無いのです。

 当然のことながら同行の二人は、僕のはるか前方を行っていたし、しばらくするとその姿は僕の視界から消えること数限りなく、その都度、彼らは僕を待つために休息を取っていたのだが、僕の休息時間が短くなるのも、又、当然であった。そして、いよいよ頂上に近づくととうとう彼等二人は僕を待つことなく姿も見えなくなってしまった。まぁ、僕には一緒に登っていける体力が無かったし、それゆえに先に行ってもらった訳でもあるが…。

 しかし、何とか槍ケ岳山荘には辿り着いた。そして、いよいよ山荘の横にそびえる山頂へということになったのだが僕には、もう切り立つ岩壁にアタックする体力などは残っていなかった。どんなに尻を叩かれても体力はゼロというかマイナス状態であった。にもかかわらず二人の友人は、ここまで来たんだからと無理矢理僕を山頂へと引きづり上げようとする。這うようにしてやっとの思いで3180mの山頂に立ったのだが、ふ抜けた僕の頭と体は周囲360°に広がる素晴らしい風景もほとんど記憶されることなく、只々頭痛と疲労から何とか逃れたいという一心だけであった。

 そしてその夜は前日に引き続き物凄い頭痛と疲労で食事は全く喉を通らず、次の日にはとうとう、全く動けなくなってしまった。

 早朝5時、山荘の医者の診断では高山病になっているとのこと。しかし出発は午前8時。このままでは出発は出来ないが、動くことも出来ない。取りあえず2~3時間眠ったら、ということになった。医者に診断してもらって安心したのか、僕はかなり深い眠りにつけたようだ。そして不思議なことに目覚めた時には、かなり状態は良くなり体力も戻った感じで、軽く食事も出来た。

 約2時間遅れて、今日の宿泊地横尾山荘へと下山の道を歩き出すことが出来た。

 しかして、この後、山を下る事の苦しさをも味わうことになるのであるが、それは又機会があった時にでもということで槍ケ岳登山の頁は今回で終了であります。


第39回“槍が岳登山のコト”その3

2004.12

 登山直後の8月初めから書きはじめた、この登山話しも、気が付けばすでに11月も下旬、正月へのざわめきが聞こえてきそうな季節になってしまいました。いつまでも、この話しを続けるのもどうなのかな、と思いつつも途中で止める訳にもいかないしなどと色々な想いが交錯する今日この頃でありますが、前回からの続きです。

 わさび小屋に到着後、電燈の点いてないうす暗い廊下を通って、部屋に入ると何とその8畳程の部屋には寸分の隙間もなく10人分の布団が、すでに敷きつめられていた。ガイドブックとか話しには聞いていたが、いわゆるザコ寝状態の部屋で、現実にそれを見て、ちと戸惑ったが、一応同室の人に挨拶をと思い、僕の対面で横になっていた、いかにも山男風の人物に「どうも」と頭をさげたが、全くの無反応だったので、あれ? と思いつつも、これも初めてのことなので、登山なれした人というのはこうゆうものなのかという概念が(そう大げさなものでもないが…)。ほんの少し頭をもたげた。しかも、夕方5時だというのに、すでにしっかり眠り込んでいる人までいる。増々、訳の分らない世界が展開していた。

 で、5時からの夕食も、当日の人数が多いので、遅く着いた(5時ちょっと前で、すでに遅いらしい)僕らは7時からの夕食ということになった。そうかと思えば、僕らより後に到着した6人くらいの少し年配のグループが、明日の出発が早いから(全員が早いのである)と強引に、早めの時間にしてくれと、従業員にせっついている。そして不思議なことに、彼らの申し出は通ってしまい何十人も待っている人達を押しのけて、彼らは平然と食事をし始めた。これも理解に苦しむ行動パターンで(ガイドブックにあった”登山者はお互いの気持ちを尊重し助け合って”…etc)読んでいた内容とずい分違う現実に又々戸惑ってしまった。まぁ、僕達としては急ぐ旅でもないしということで、そんな出来事を横目で見つつ、とりあえず初日の無事に乾杯をしたのでありました。

 午後7時すぎからの夕食を終えたのが8時頃で、部屋に戻ったらすでに明りも消されていたので、持参した頭に付ける懐中電灯で照らしながら簡単に明日の準備と寝支度をして、さてと思ったら回りの全員も、常富さんも吉田さんもすでに横になっている。まだ8時半である。普段夜型の僕としても、別にやることも無いし、ウォークマンも無いし本もない。何も無いから、もうほとんど仕方なく眠りにつく以外の選択肢はないということでした。

とはいうもののなかなか寝つけるものでもありませんが、昼間の疲れもあってか、何とはないしに気がつけば空が白んでいたという程にぐっすりと眠れましたが、起きた時にはすでにほとんどの布団が畳まれていて、部屋の外ではうるさいという程ではないがザワザワとした雰囲気が伝わって来た。まだ朝の4時前であります。一応、僕らの予定では4時半に起床と、なっていたし、まぁ、少々早いが5時から朝食、6時には出発ということだったので、この際起きてしまおうと思い切って布団から出たときには、常富さん吉田さんの二人は、すでに”朝の用事”を済ませた後でした。

 さて、2日目は、わさび小屋から予定通り午前6時に、今日の宿泊地、双六小屋到着を午後2時半に設定して出発した。まずは、小池新道を通り鏡平をめざし歩き始めた。そして地獄への序章は歩き始めて30分もしないうちにやって来た。そこは、川原にあるような大小の石がゴロゴロと転がる坂道で、まさに”終りのない地下鉄の階段”を上るようなものでした。その上めちゃめちゃ足場の安定しない場所を、20kgの荷物を背負ってとめどなく続く坂道を登り続けなければならないという現実がそこにあった訳であります。しかし、これが本当の地獄ではない事に、気付いてない「奴」が又々、そこにいたのです。

(以下次号)


第38回“槍ケ岳登山のコト”その2

2004.11

 先月からの続きである。この夏、7月の下旬からの槍ケ岳への初登山を経験したときのコトである。しかして、登山というものが、これ程過酷なモノだとはつゆ程も考えなかった浅はかな自分に怒りさえ感じてしまった訳でありまして、言い替えれば、大変な「出来事」というか「事件」とでも言ったほうが良いくらいの経験でありました。

 約25kgのザックを背負い、登山の出発地、新穂高温泉に着いたのは、新宿からあずさ9号で松本へ。松本からは、バスにて丁度午後3時ごろに到着。実は新宿を出る時点で、同行の常富さんから、ザックの中身が多すぎて重すぎる感じがするから、少し荷物を減らした方が良いのではとのことで、せっかく用意してきたポカリスエットの粉末やら、栄養補給ゼリー、それと山小屋で読もうと思っていた文庫本、ウォークマンとカセット数本、着替え用のシャツなど約4~5kg分を出発地の新穂高温泉のコンビニ?(お土産屋かなあ?)から、宅配便で家に送り返す作業をしたのだが、実はこれがこれから先に起り続ける不安の数々の最初の出来事だった。

 まずは初日の宿泊地、わさび小屋への約4kmのなだらかな坂道を上り始めたのだが、50mもいかないうちに、軽くしたはずのザックが全身におおいかぶさって来て足が思うように前へ進まないのである。こんなに平坦で舗装こそされていないが、車も通っているごく普通の坂道としかいいようのない場所でもうキツイのだ。

 先述のとおり、普段運動することなどほとんどないのだが、今回は一応一ヶ月程前から、スクワットを一日30~50回はこなして万全? を期して臨んだはずなのに、どうしたことだ? もう体が音をあげている。同行の常富さんと吉田さん(今回初登場!!「海は恋してる」のザ・リガニーズの元メンバー《ちなみに常富さんも元メンバー》で、現在は森山良子さんや平原綾香さんの所属するレコード会社ドリーミュージックのマーケティング部勤務)はどんどん先を歩いている。

 常富さんは登山歴20年。吉田さんも、今回の槍ケ岳のような高い山への挑戦はないが、結構いろいろな山を踏破した経験の持ち主であるから当然といえば当然だが、2人の速度に全くついてゆけない。

 しかし、それでもこれから先に起り来る地獄から比べれば、まあ“へ”のようなものなんだが、何とか追っかけ、ついてゆくしかない!!それしか考えていなかった。

 そういえば、ここですでに「ウォークマンで音楽を聴き乍ら楽しく登山を!!」なあ~んてことが全く不可能であることを思い知らされてしまった。もう、この時点ですでに体が音楽を受けつけるような状態からは遠のいていた。常富さんの「ウォークマンなんか、いらないヨ!!」の一言が、何と重い意味を持っていたことかっ!!それでも歩かねばならないと、我が身にムチを打ち約2時間弱で、夕方5時前にはわさび小屋に到着出来た。ザックを下ろした時の安堵感というか、急に体が軽くなった爽快感を味わった時には、何かひとつの試練を乗り越えたような大袈裟な気分にさえなっている僕でありました。

 しかし、明日からの未知なる地獄の世界を知らない能天気な“奴”も、そこにいた訳であります。

(以下次号)


第37回“槍が岳登山のコト”

2004.10

 今年の夏、7月の下旬から、生まれてはじめて、しかも50も半ばだという、この年にとんでもないことに初挑戦してしまった。山登りである。しかもそんじょそこらの山ではない。北アルプスの南部に位置し3000m級の岩峰が連なる山々の中でも最高峰の奥穂高岳(3190m)に次ぐ高さを誇る、槍が岳(3180m)への登山に挑戦し且つ成功を果たしてしまったのであります。

 さて、普段ここのところ運動というものに、とんと縁のない僕にとって「登山しない?」と誘われた時、ほとんど何も考えずに「いいですねぇ!!」と即答してしまった。まずは、登山1ヶ月前の話であるが、その後にやって来る地獄のような現実など知る由もなかった。

 とりあえず、行くと決めてしまった訳でありますから同行する企画立案者の常富喜雄さん(1976年あおい輝彦さんの唄でヒットした「あなただけを」の作曲者であり、元「猫」のメンバーでもあり、その後吉田拓郎のディレクターであり、そして杏里を育てあげたプロデューサーでもあります)に、登山とはどういうものかを問うてみました。彼曰く、 「軽いトレッキングというか山歩きみたいなもんだから、きつくないし“楽”なもんですよ。女の人だって沢山登っている山だから何の心配もないから大丈夫だよ!!」と、聞いて、まずは一安心。

 それでも、単なる山登りなのか本格的な登山のようなものなのかという不安が頭をもたげて来て、そのあたりの山の本を買い込んで自分なりにどういう山なのかを確認してみた。すると、槍が岳はというと・・・、な、な、なんと物凄い岩山ではないかっ!! しかも、こんなことが書いてあるくだりがあった。

 「3000mを越える岩峰が8つも連なる槍・穂高連峰、その稜線縦走路はアルプスで最も難度が高く、熟達者のみに許されたアルピニスト憧れの縦走路だ。これを走破するには、総合的な登山技術が必要となる。まずは比較的簡単なルートからピークを極め、段階的にステップアップしていこう」とある。

 エ”-ッ!! こりゃあー話が違うぞ、確か楽な登山だから大丈夫だと常富さんは言っていたのにっ!! ヤバイッ!! 再び常富さんに聞く。

 「かなり、熟練した人達が登る山だと本にあったけど大丈夫かねぇ?」「大丈夫!!大丈夫!! 今回は、そのルートを歩くのではなく西鎌尾根で、しかもかなり余裕をもって楽なコースを歩くんで、全く心配ないですよ」とのこと。再び、安心。

 しかし、改めて本を開いてみると、「危険を回避する方法は?」とある。ちょっと待て、危険を回避だと? 話が違うではないか。そうかぁー。「楽なコース」とは言っていたが、危険が無いとは言わなかったな、常富さんは。

 読み進むと「3000mの稜線では、天候がひとたび荒れると、想像もつかない程厳しい世界に変わる。真夏の日中でも最高気温が5度℃を下まわることもあり、雨や風が加わると、登山者のダメージは極めて大きい。雨で体が濡れると体温が奪われる。山での体温低下は致命的。荒天時の行動は危険だ」致命的ィーッ!? ヤッバーッ!!

 さらに、「落石、滑落、転倒、高度障害、疲労など登山には様々な危険がつきまとう」又々、エ”-ッ!! さらに、「山ではすべてのことが命にかかわってくることも忘れてはならない」。

 エ”-ッ!! エ”-ッ!! エ”-ッ!! で、以下次号。


第36回“セツ・モード・セミナーのこと その(2)”

2004.9

 エルビス・コステロがデビューした頃、その風貌をみて、この男、誰かに似ている。以前どこかで見たような顔なんだが、誰だったろうか? ガロはとうに解散して、ロンドン・パンク全盛の1970年代後半の頃だ。大きな黒縁の眼鏡にギョロリとした目と細い顔立ちにリーゼント。確かに似ている。そう我が師、長沢節の若き日の写真と生き写しである。

 前回に続き、今回は長沢節氏のコトを書いてみよう。

 その長沢節(敬称・略)の生の声を初めて聞いたとき、実を言うと僕は戸惑ってしまった。声は男だが喋り方は女なのである。いわゆるオネエ言葉。今ではおすぎとピーコとか色々なタレントがこういう喋り方をしているので珍しくもないが、男が女言葉で話すのを聞いたことなど無かったから本当に驚いた。

 ところが時間が経つにつれて慣れてしまったというか、長沢先生のキャラクターとその喋り方がピタッと一致していることに、ある日気付いてしまった。あまりにも自然なオネエ言葉のせいか、彼にはもうこの喋り方以外は似合わないなと思ったのである。彼の頭の構造上、この喋り方が一番ふさわしいことに気付いてしまったのである。

 以前、彼はある雑誌にこんなことを書いていた。それは、まさにセツ・モード・セミナーで講義を受けていた頃に聞かされた話し、そのものであった。「男らしさのうちで、私が一番目の仇にしたのは“強さ”というものだった。人類が目指している弱者優先の福祉社会で、男がいつまでもバカのひとつ覚えみたいに、強そうな格好をしてたとしたら、とんだお笑いか、しらけちゃうかどちらかだ。ではどうすればいいか。その見本こそが女なのだ。男は強く女は弱いとされていた男性社会の歴史の中で女こそが弱者の美学をうち立て生き方の真のカシコさを示してきた。つまり、優しさは必ず男の強さをうち負かすのである」とか。「男女の身体の構造をつくる、それぞれの違いが男性美となり女性美となるのは当然だが、その違いだけに焦点を絞りすぎるのは、現代的ではない。男女の違いよりも、その共通の人間美というか、個性美を受けとめている場合が多いのである。人を見ていきなり男か女かではじまるような受けとめ方ではなく、もっと個性的に《キレイな》とか《スマートな》で、はじまり性別などは最後まで問題にしないような評価をする人は進んでいると思う。肉体構造など越えたところで、ある種の人間美が徐々につくり出されている。そこに、男も女も同じに優しく、デリケートでスマートでソフィスティケートされた美しさがあるのである。」

 思えば、東京に出てきたばかりの18才の少年の前で、唐突に男と女のかき根など必要ないし、そんなものは取っぱらってしまいなさい、などと説かれて、どういうことなんだろうかなどと、思いつつも説得力のある、オネエ言葉での話し方とその表情にすっかり心酔している自分がいたのである。かと思えば、「西洋人と比べた日本人の肉体的貧困はほとんどが、その手足の短さに要約されている。長い胴体はずるずると細長く、肩幅も小さく尻の盛り上がりもなく、アクセントに乏しい。つまり日本人には動線の美しいダイナミズムが無いのだ。ところがこのアクセントのない蛇のような胴体は和服に包まれると、とたんにセクシーになるのだから不思議だ。」まさに否定の中でさえ肯定論が展開されてしまう、あらゆるモノへの見方が一方向へ偏ることがないのだ。もうひとつ書いておこう。 「風景を描くというのは、まるで誰かとセックスをするみたいなところがあって、うまくいったところへは必ず又、行ってみたくなるし忘れられないものだ」なんて話されると、なぁるほどとそんな気分になってしまうから不思議だ。

 こうして入学した頃のほんの一時期を想い出してみても、僕自身の価値観というか人生観などが形成されたのは、ほとんどこの頃だったのかなぁなどと、これを書きながら改めて感じている酷暑の8月であります。読者の皆さんも機会がありましたら、長沢節関連の文章、資料に接して欲しいものであります。今風に言えば、心のどこかを「リセット」出来ること間違いなしです。


第35回“セツ・モード・セミナーのコト”

2004.8

 先日、6月も終わりのある日、文京区にある弥生美術館で開催されていた、我が師である故・長沢節先生の「長沢節・展」を見てきた。実は長沢先生は1999年に82才で不慮の事故のために、急逝されてしまったのだが、その直前に銀座で開かれた個展で、何年かぶりにお会いした時には、すごく元気で「近々、飯を食おう!!」なんて会話を交したのが最後になってしまった。

 長沢節という人物を知らない方も多いと思うので、簡単に師の説明をしておこう。独特のスタイル画で一世を風靡し、戦後の日本ファッション界に多大な影響を残したイラストレーターであり、水彩画家であり、エッセイストでもあり、そして美術学校セツ・モード・セミナーを主宰し、その校長でもあった。出身者には今や、日本を代表するファッション・デザイナー山本燿司や花井幸子など。イラストレーターではペーター佐藤、峰岸達、池田和弘、最近売れっ子の上田三根子など。その他では、料理研究家のケンタロウ、人形作家の四谷シモン。芸能界では樹木希林、桐島かれん、藤谷美樹、コーネリアスの小山田圭吾、木原光知子など。あとはクリエーター、プロデューサー、評論家、カメラマン、漫画家、モデル、エッセイスト、スタイリストなどなど、数えあげたらきりがない程多種多様の職業に就いている人達がこの学校から輩出されている。

 1968年の4月に僕はこの学校に入学したのだが、新宿区舟町の曙橋のほど近く、急な坂道の階段脇に今も、その学舎はある。この学校は午前、午後、夜間と1日が3部に分かれていて、それぞれが、好きな時間帯を選べるシステムになっていた。当初、僕は午前部を選んだのだが、後にアルバイトの都合で午後部に編入した。

 入学式の当日、余りに多い生徒の数に驚かされた。当時、この学校には試験がなく、申し込み順で定員になればそのまま〆切られてしまうというシステムで、各部とも70名程の生徒だったと思う。周囲の風景とは全くそぐわない洒落たパリ風の細長い建物はとてつもなく狭い階段で繋がれた各階の教室と中2階風のロビーがある6階建ての瀟洒なものであったが、入学式の当日は200名以上の人間が、その狭い校舎にひしめいていた。しかし、その数も3ヶ月もしないうちに、あっという間に半数以下になっていた。まあ、思えば、この学校のシステムというか方針が、別に積極的に何かを教えるというよりも長沢先生と一緒にクロッキーを描きデッサンをし水彩画を描きで、他の講師の人達も絵の技術とか美術史とかを教えてくれる訳ではなく、自分の経験とか人生論を喋るだけで、授業を受けているという雰囲気とは、ちと違うものであった。

 実は僕自身も1ヶ月くらいした頃に、果たしてここは学校なんだろうか? などと疑問を感じていたのも事実である。話は戻るが、そしてある程度の時間が過ぎると各人が描いた絵も溜まってくる訳で、それらの絵を各々が持ち寄って、長沢先生から批評を受けるというか批判を聞ける場が、もうけられるのであるが、その批評会の中で展開される独特の「長沢節ワールド」に魅了されてすっかり節先生の虜になってゆく訳ですが、そんなお洒落で素敵な長沢節の世界は次号で!! 

(以下次号)


第34回“ふと「団塊の世代」のコト”

2004.7

 “団塊の世代”とか呼ばれて、その数にまかせて我がもの顔で時代をのし歩いて来たはずだった世代が、いつの間にか最近では“沈黙の世代”と呼ばれるようになったらしい。僕の周りには熱弁をふるいながら、世の中を仕切り、きりもりし、時代を文化を引っぱってきた人間が結構いるので、誰がどういう人達が「今」沈黙をしているのか? この“団塊の世代”全体が沈黙をしているのか? 意味がよく分からなかったのであるが・・・。

 “団塊の世代”という言葉は今から28年前に堺屋太一さんが名付けたもので、この世代の未来を予告する小説を書いた時のモノだ。とのこと。正確には1947年~49年の3年間に生まれた人達のことを指して言うが、1949年昭和24年(僕の生まれた年でもあるが)生まれの人口が一番多いらしい。とにかく日本の戦後の成長とともに年令を重ねてきた世代でもある。戦後史の中に刻まれてきた印象的な出来事や変化をまともに経験した唯一の世代ともいえる。それ程に、世の中に風を巻き起こしてきた世代が今、なぜに沈黙の世代と呼ばれるようになってしまったのか?

 例えば1959年生まれの某大学助教授によると、団塊の世代の人達というのは「能天気な精神主義で戦略的行動の重要性を知らない」つまり、口先だけで行動が伴わない人種である、ということらしい。さらに1968年生まれのある人は、団結すれば何かが出来ると思っている世代である。と。世の中、けしからん、けしからんと言いながら、後は自分の趣味を追求している。説教くさいくせに、自分は成熟を拒否している。とか、とか。

 どうやらイメージとしては、70年代元気の良かった連中が、体制という社会のワク組の中に入ったら、いつの間にか、その中にしっかり組み込まれてしまって、モノは言うが実行力がないもんだからすっかりその姿が見えなくなってしまったということらしい。

 別に抵抗するつもりはないが、別の世代から見ればそんな風に見られていたのか、という思いだけでは済まされない気もするが、ちと淋しい気もする。例えば、最近では結婚式などに呼ばれても友人が結婚するのではなくて、友人の息子とか娘だったりするのが当たり前になってしまった。とは、言っても仲間うちでは、そろそろ定年も間近になってきたのだが、その前に会社をやめて、新たに会社を立ち上げたり、今こそ自分のやりたい事をやろうと意欲に燃えている人もいる。まったくもって頼もしい限りで勇気づけられる今日この頃である。

 僕も沈黙などしている暇などはないのです。今こそ、大いなる創作活動に入るべき時期が来たという訳です。多くの画家や芸術家がそうであったように、アーティストにとっては、まさにやっと、熟成出来る年令になったということであります。

 “団塊の世代”大いに頑張るのコト、というコトであります。


第33回“人のやっているコト”

2004.6

 1969年の12月から、3ヵ月間、僕は渋谷東横劇場で上演されていた、反戦ミュージカル「HAIR」の舞台に立っていた。ベトナム戦争、まっ只中の時代に、ニューヨーク・ブロードウェイで全世界で大ヒット中のミュージカルの日本版である。反戦をテーマとして「何ゆえ人は生れ、そしてどこへ行くのか?何のために、誰のために生き、そして死ぬのか?」世の中の、そして人々の様々な問題を提起しながら、物語は展開してゆく。エンディングでは、主人公でもあり、リーダー的存在であった人物の戦場の死によって、その死を問うのであるが、その死の意味を見い出せず、そのもどかしさを残したまま終る。それでも僕らには太陽はいつまでも輝き続けるし、輝き続けて欲しいと切に願う。人間は太陽の下(もと)自然との関わりの中で生を育んでいるのだからと・・・。

 先日、テレビのある報道番組でのこと。自室でエレキ・ギターを楽しそうに弾く自衛隊員へのインタビューが映し出された。何故、自衛隊に入ったんですか?の問いに、24歳の陸士長は「敵が来た時に、何も出来ないんじゃなくて、誰かが行かなくてはいけない。その誰かが行かなければいけない、誰かになりたい。どうせなら、守る人になりたいなぁー、というのがアレからですね。(この“アレからですね”の意味がよく分からない) もう、古い言葉ですが、“お国にため”みたいな・・・。ハッハッハッ」と、くったくがない。

 しかし、何のためらいもなく“お国のため”という言葉が、一人のエレキ・ギター好きの青年の口からスラスラと出て来た。子供の頃に、おやじや、おじいちゃんから聞いていた、あの“お国のため”という訳のわからない、どうにも理解しがたいあの言葉が・・・。今は、実戦で相手を0.6秒で撃ち倒す訓練をしているという。人を撃つのに、ためらいを感じている隊員もいるともいうが、早い話が人殺しの訓練をしているということだ。

 そして番組は続き、その後、一体、いつ誰が現在を、今を「テロ戦争の時代」としたのか、いつからそうなったのか知らないが、番組の〆で女性キャスターは「自衛隊は、対、テロ戦争という時代になって、強く実戦を意識する部隊に生まれ変わったといえます。憲法改正の動きに合わせるかのように、自衛隊も50年目にしてその姿を大きく変えてゆこうとしています。」と、とんでもない事態になっている、この状況を、延々と、平然とした顔で原稿を読んでいたキャスターの表情は冷酷そのものに見えた。だいたい「テロ戦争の時代になった」などと決めつけていいものなのか?それこそメディアを通じて、戦国時代になりましたヨ!!と戦争のプロパガンダをしているようなもんじゃなかろうか?覚悟しておけ、と脅迫されているような気分にさせられてしまった。

 もう一度書くが、その昔、僕が子供の頃に聞いた、「太平洋戦争中“お国のため”だからと、まともなことが、価値観が、人間さえもがデタラメになってしまった。」と憂いていた、おやじや、おじいちゃん達の顔が浮かんできた。戦争が起るのは利権がからんでいるからだの、宗教的は問題があるんだとか、あげくは今、イラクで起っている様々な問題に関しては、戦争とは、そういうもんだなどと知ったかぶりで話を押さえこむ輩。もうちょっと平和で、人として建設的で前向きな気持ちになれるような、まともな世の中になるような、幸せな気分になれるような、モノをメディアは提供して欲しいものである。

 “しかし、「人」は一体何をやってんだろうか?”


第32回“「おまえ」のコト”

2004.5

 近頃というか、かなり以前から気になっていたこと、違和感を持っていたことがある。 それはTVの中での話なのだが、映し出されるドラマの中での女性に対する呼び方のコトである。

 いつ頃から、そうなったのか良く分からないのであるが、例えばあるドラマなどで主人公の男が恋人とか女友達に対して「オマエ」という呼び方で相手に接している。「キミ」とか「名前」でならまだしも、「オマエ」なのである。「オマエ」が好きだ!! とか、ずっと「オマエ」を守ってやるから!! とかとか・・・。

 かと思えば、もう一例上げると、若いお笑いの芸人が公開番組の会場なんかで、客に声をかけたりする時に、マァ一般的には若い客に向かってだが、「オマエ」どっから来た? とか「オマエ」いくつだ? はては、「オマエなぁ」などと初対面の人間に対してたしなめちゃったりしちゃうワケ。全く面識のない人間に対して平気で「オマエ」呼ばわりを繰り返す。マァ、僕からすれば、そんな芸人こそ「オマエ」、一体何様なの?何様のつもりなの?などと言いたくなる。というよりも、画面の前で毒づいている自分がいるのである。この場合「オマエ」というよりも「オメェー!!」って言っているな!?

 で、「オマエ」という言葉は、僕の感覚でいうと、元々男同士で使う言葉っていうイメージがあって、女の人に対してはあまり使うコトのない言葉だと認識してきた。小中学校の頃のクラスメイトでは、女の子に対しては、余程親しくならない限り呼びすてで名前を呼ぶことはなくて、「○○さん」と「さん」をつけて呼んだものである。ただし、男子に対しては、当初は「くん」付けで呼んだりもするが、時間が経つにつれて、名前を呼びすてで呼んでいたりした。男子に対しては自然な流れの中での友達関係が、そうさせていたのだと思うが、女子に対してはずっと「さん」が付いていたと思う。そうそう簡単に「オマエ」などとは呼ばなかったものである。

 しかし、「オマエ」という言葉に、そういう呼び方に違和感を感じない人間関係も勿論ある訳で、肉親関係もその一つ。特に親から子へとか、それと非常に親しい間柄の友人で、「オマエ」と「オレ」などという関係。一般的に言うと、やはり師弟関係とか、ごく親しい関係の中では、年齢的に上の人が下の人に対して使ったりするのは不自然さを感じないのであるが・・・。とにかく、やたらと「オマエ」を使いたがる人間に対しては偉そうなヤツって感じがするし、相手に対して優位に立っていたいと願ったり、立っていると思い込んでいるか、もしくは勘違いしてる人間なのではないか?やはり親しい間柄でないと成立してはいけないのが「オマエ」なのではないのか?馴れ馴れしく使うモノではないのである。誰でもが、たいして親しくもない人間からエラそうに「オマエ」呼ばわりなどして欲しくないのである。好きではないのである。気分も良くなくなるのである。

 そういえば、先日ニュースかなんかのコラムで、確かどこかの小学校での話だったと思うが、クラスの女子に対しては「さん」付けで呼びましょう、と取り決めをしたところ、クラス内でのモメごとやいじめなどが減ったとのこと。やはり呼び方ひとつとっても、「人の心」は平穏にもなるし、イラ立ったりもする。「心の動物」人間とはかくも複雑なものなのである。


第31回“「8についての考証」のコト”

2004.4

 3月である。もう3月である。唐突ですが今回は「8」という数字の持っている特性について考えてみました。スーパーとか大手の電気量販店、薬屋など特売でなくても、この「8」とか「80」とか「800」で終る値札のなんと多いことか。何故「8」なのか?ぎりぎり、次の桁に行く手前、それも97とか99ではなくて98なのである。「8」この数字は一体何者なのか?アラビア数字(算用数字ともいう)を「1」から順に「0」まで、その形を検証してみますと・・・。

 「1」はバランスを取っていないと、左右どちらかに倒れてしまう。やはり「1」といえばトップ。その地位を確保し続けることの難しさと同じ立場にあるという事が形態的にも言える訳です。

 「2」はどちらかというと、下が平らということで数字中一番の安定感を持つものと言える。しかし、字そのものの重量感が希薄になっている事と、いかんせん若いという事実は否めないだろう。「3」も、一見すると安定して見えるが左側の空間ゆえに右側に倒れてしまう危うさを感じる。倒れた時の形が性的なものにつながる危険性を持っていることも事実である。

 「4」これは、もう何をか言わんやで、傘を広げて立たせようとしても立たないのと同じで全数字中の不安定感は一番ということになる。「5」も「3」と同じだが、天井の横棒のよりどころが左の縦棒にたよっているところに「5」の甘さが見られる。それゆえに結果的にはかろうじて横棒の重さでバランスを取っているようにも見えるが、右側に倒れこむのは自明の理である。「6」も安定して見えるが騙されてはいけない。よーく見ると左側が重いんです。したがって左に転がって左に進むカタツムリのようになってしまう訳です。

 「7」これは、もう、ラッキーセブンなどとイイ気になっていますが名ばかりです。何をか言わんやです。放っておいたらすぐに倒れてしまいます。そして問題の8は後回しにして、「9」ですが、これは「7」と同じくらいの不安定要素がありますが、右にしか転がれません。そうです。もう気付いたと思いますが、「6」と同じカタツムリということになります。「0」ですが、これはもうほとんど居場所を特定出来ません。どこにでも転がっていける便利なヤツなんです。というか“お調子もん"というべき立場にいる訳です。

 さぁ、そして「8」ですが、まさに見ての通り一目瞭然。素晴らしい安定感です。単に0が縦に重っているように見えますが、よーく見て下さい。下の0というか丸の方が少し大きいことに気付くことでしょう。これなんです、大事なことは!! 正月の鏡餅と同じ形態を持っているんです。2段重ねの下が大きいから安定を得られる訳です。生まれてこのかた上の大きい鏡餅なんて見たことがありません。よって「8」は鏡餅と同じであるという考え方が成立します。よって縁起も良いわけです。別に漢字の「八」が末広がりだからなどという理論を持ち出す必要もありません。

 で、「98」とか「980」ですが、これもよーく見て下さい。「9」も「0」も「8」に頼っているんです。「9」の場合当然「8」側に倒れようとしますが、安定した「8」のおかげで倒れずに存在を保っている訳です。よって「98」=安定という“図式"が成立します。そして「980」ですが、これは「0」のどこにでも転がっていけるという特性上楽になりたがるという傾向があります。ですから「98」という非常に安定した状態を保っているのを見つければ、当然「0」は「8」側に転がりたがる訳です。よって「980」=安定という“図式"がここにも成立するという事になります。こと程左様に「98」というのは見てくれの安定感の最たる形態をなしている事になる訳です。よって人々は「98」とか「980」とかの数字を見ると、とても安心した気持ちになれる訳です。ですから別に、値段が安いからとか、次の桁に行ってないからという考えで安いと感じて「買いに走る」わけではないのです。安定感=安心感という未知なる「公式」によって心が、おのずと導かれてしまうということです。何といっても人間は「心の動物」ですからね。

 ということで「98」とか「980」でなくてはならないという“マジック"が、そこには存在しているのです。

(以下次号)


第30回“ウォーキング・マップ”

2004.3

 外出するには、もうしばらくはコートが手離せなくて、まだまだ寒い日が時折、顔を出す今日この頃です。

 そんなさ中、なんと上京した頃に住んでいた、新宿区富久町から、早稲田界隈を歩いた。TBSの日曜日、早朝の番組「東京ウォーキング・マップ」で、大野さんにとっての思い出の場所を歩いてみませんか? との依頼で、本当に久しぶりに、かれこれ35年ぶりに、そこを歩いてみた。まさにこう云う番組があればこそ実現出来た散歩であった。

 別に、行こうと思えばいつでも、そこには行けるはずなのだが、日々、過ぎ去ってゆく時間の中に埋れている想い出に出会うことさえも、億劫になっている自分が情けない。そんな時に舞い込んで来た思いがけない仕事であった。

 実は偶然だが、この番組の収録の少し前に、ちょっとした用事があって近所を通りかかったことがあった。僕の住んでいた、余丁町公園のわきにある木造の2階建てアパートは、まだ存在していて心なしかホッとしたりしたが、靖国通りと外苑東通りが交差する曙橋付近にある住吉町の交差点から抜弁天に通じる道路は拡張工事のせいで、風景はすっかり様変りしていた。たしかに職安通りから四ツ谷方面に又はその逆方向に行くには、とても便利にはなっただろうが、昔ながらの仕舞屋の並ぶ風情のあった狭い坂道は、もう、すっかり姿を変え、その面影すら残っていない。ただ、その坂道をはさむ靖国通りの反対側の裏の細い通りのわきの急な坂道の途中にたたずむ、わが母校“セツ・モード・セミナー”(とはいっても最近話題の学歴詐称にあたるといけないんで、僕の場合は中退であります。というか、当時この学校に入学した生徒の大部分7~8割がたは、卒業しなくて中退だったと思う)は、その健在な姿は当時のままである。

 さて、散歩のスタートは僕の住んでいた余丁町公園付近からではなく、地下鉄大江戸線の若松河田駅から始まった。

 1968年当時に、まだ都電が走っていたこの通りには、せいぜい2階建ての家が立ち並んでいただけだったと思う。スタート早々、あまりの変貌ぶりに自分が今、どこにいるのか全く分からない状態になっているのに気付いた。ディレクターから説明を受けて、やっと納得。過去を取り戻そうと、若松町に向かって通りの右側を歩き出すと、すぐに、いかにも昭和を感じさせる佇まいのタバコ屋さんが・・・。改装もせずに今日に至っているが、道路整備のために、近々立ち退く予定だという。

 確かに時代の移り変りと共に人も変るし、街も変ってゆくものなどと思いつつも、皇后陛下の旧正田邸にしても、そうなのだが、こういうものを(その家が歴史的に価値があるかどうかは別にして)何とか残しておけないものか?などと、残念な気持ちと同時に、ある種の憤りとも思える感情が湧き起ってきたが、かといって今すぐ自分が何かを出来る訳でもなく、話をしてくれた老婦人(昔は看板娘だった? )の“もう、仕方がないのよね”という言葉に何というか、言いようのないむなしさを感じつつ、どうにかならないものなのか? と・・・。

(以下次号)


第29回“お土産のコト”

2004.2

 2004年があけました。今年もよろしくお願い致します。

 ところで2003年を、ふり返ってみると去年は、いろんな地方へ行きました。北は北海道最北の地、猿払から南は奄美大島から沖縄・那覇まで、一年を通して北から南からまん中まで、活動を再開してからでは、一番多くの地を訪れてライブをすることが出来た一年でした。これもひとえに観に来てくれる皆さんのおかげであります。感謝!!感謝!! 

 ところで、地方に行って楽しみなのは、やはり仕事が終わってからの食事ということになります。しかし、北海道の猿払に行った時のホタテには参りました。ホタテの刺身、焼ホタテ、ホタテフライなどなど、とにかくホタテづくし。実は、このホタテが別に嫌いという程でもないですが、好んで食べる方ではないので、このホタテざんまいには閉口した。当地の人に「いつも、こんなにホタテを食べているんですか?」と聞いたら「何年も食べてないし、前に食べたのもいつだったか憶えていない」とのこと。もぉーっ!オイ!!オイ!!ですよ。「観光に来てるお客さんには、こんなに大量のホタテを食べる機会は無いと思うんで、ついつい『旨いですよ!!』って勧めると、皆 旨い!旨い! って言ってくれるからねぇ。マァ、そうかなぁ? などと思いつつも、旨いでしょう!!とか言っちゃうんだよね。」正直というか、何というかですが・・・。僕のように、そうそうホタテを食べたいと思ってない人間には困っちゃうんだよなぁー。

 そういえば、随分前に広島に行った時に「カキ船」というのに乗った時の「カキ」ざんまいにも同じようなことがあったなぁ。他に北海道ということで「カニ」もあったと思うけど、記憶に残らない程ホタテだらけでしたね。で、もって お土産にもらったのが、ホタテの乾燥した干物みたいなヤツ・・・。何ってたっけ? あれ?

 ところで北海道のお土産といえば「カニ」とか「鮭」とかもありますが、「ラーメン」ですかねぇ。僕がいつも買うのが六花亭のマルセイバターサンドと、ホリのとうきびチョコレート。キムチが好きなんですが、豆大福も好きなんです。で、地方に行くときによく言われるのが「何か、お土産買ってきて」って頼まれたりするんですが、この「何か」がクセモノなんですねぇ。どこの地方に行っても、あまりの種類の多さに、どれを選んで良いのか迷ってしまう訳です。思えば最近どこに行ってもあるのが地方名産?品の味がする「ポッキー」。名古屋は味噌味、大阪はたこ焼き、静岡はわさび味(これは長野だったかなぁ?)だったか、うなぎの蒲焼味だったか?とにかく何種類あるのか知りませんが、どこのも「デカイ!!」。面白いからこれにしよう!!とするんですが、そのデカさゆえに二の足を踏んでしまい、再びどれにしようかと思い悩んでしまう僕であります。しかし、ここでふと考えてみる。「まぁ、自分で食うもんでもないしなぁ。」などと考えると、気が楽になるもので(その逆で、よく選ばないと問題が起る事もあるが・・・)「そうかぁ、お土産ってのは結局そういう存在のものかも知れないなぁ」などと勝手に結論を付けてしまえば何を買っていっても、お土産はお土産に変りはない訳だしな、と納得したのでありました。

(以下次号)


第28回“「なんでだろう~」は「な~んでか」だったのコト”

2004.1

 気がついてみれば、この「○○なコト」も回を重ねて28回目。あっという間に2年以上の歳月が過ぎ去ってしまいました。そして2003年も終り、この回が掲載されると間もなく新しい年、2004年がやってきます。この連載にも以前書いたことがあると思うが、年をとると時間の過ぎるのがドンドン早く感じるようになると・・・。そして、同時に物事にも分からない事がドンドン増え続けている事にも気が付いた。

 先日2003年流行語大賞のひとつに「なんでだろう?」という言葉が選ばれたが、実はこの「なんでだろう?」という言葉が結論になるような漫談が、かなり前からあったのをご存知だろうか。「な~んでか?」の堺すすむさんである。

 本当のことを言うと、僕はこの「な~んでか?」をつい半年程前まで知らなかったのだ。知り合いの友人ということで堺さんを紹介されたのは2年程前であったが、その時、勿論堺さんの事は知っていたのだが・・・。物マネの持ちネタがメインの芸人さんだとばかり思っていた。確かその時に貰った名刺に「なんでかフラメンコ」と書いてあったのだが、それよりも、似顔絵が描かれていたんで、そちらに目が行ってしまって「似てますねぇ」などと会話しているうちに、酒席でもあったことから「なんでかフラメンコ」の疑問はついに聞かずじまいで、そのままになってしまった。その後3回程、一緒に飲んだり食事する機会があったのだが、「なんでかフラメンコ」って何っ?の謎をついぞ聞きそびれてしまった。

 そして今年の3月だか4月頃のある日曜の朝刊のラテ欄を見ていたら「笑点」のところに「堺すすむ」とあったんで、ここ何年も見ることのなかった、日曜夕方5時30分からの「笑点」にチャンネルを合わせた。小型のギターを抱えて登場した堺さんのネタが始まった。なーるほど「なんでかフラメンコ」ってのはこのことだったのか。もう半年以上も前のことなんでその時のネタは覚えていないのだが・・・。しかしこの落ちは、何かに似ているなぁー。あっそうかぁ。あのジャージのなんとかって二人組がやってる「アレ」と同じじゃないのか?だがしかし堺さんの「な~んでか」はもう何十年も前からのネタな訳だから、マネてるのはジャージの二人組(この時は“テツ・アンド・トモ”というグループ名は知らなかった)だ。こんな事ってアリ?許されちゃうのかねぇ? ひとつの楽曲の作詞でいったらまるっと盗作だし、“ひでぇーなぁー!!”などと思っていたのだが、しばらくして、その堺さんを紹介してくれた知人の娘さんの結婚式でご本人と会う機会があったんで、先日の「笑点」を見たことと、その「なんでだろう?」についてどう思っているのかを率直に聞いてみたら、意外な答えが返って来た。

 なんとテツ・アンド・トモの二人は「なんでだろう?」のネタをやる際に堺さんのところに出向いて来て、実はこういうネタをやりたいんで許可をしてくれませんかと挨拶にやって来たとのこと。本人達も最初から堺さんの持ちネタと同じであることはしっかり分かっていての「なんでだろう?」だったわけである。堺さんは快く承諾をしたとのこと。

 だがしかし、この「なんでだろう?」は何と2003年の流行語大賞のひとつに選ばれる程の大ヒットになってしまったのである。堺さんにしてみれば「な~んでか」がずっと以前からあったネタなのに、よりによって「なんでだろう?」が賞を取ってしまったなんて、まさに「な~んでか」ってとこだろうなぁ。

(以下次号)


第27回“1973年3月のコトを書いているうちにのコト(その9)”

2003.12

 ほんの軽い気持ちで入院中のことを書こうとしていたのに、とうとう9回目になってしまいました。では、前回からの続き…。

 しかして、とうに一週間は過ぎていた。曲が出来たといってアシスタントディレクターがカセットテープを持ってきた。4曲入っているという。僕はてっきりデモテープかと思い、はてさてどんな作品なんだろうかと思いカセットのPLAYボタンを押した。「あれッ!マークの声もトミーの声も入ってるじゃん、俺はこれにかぶせるの?」A.ディレクターは気まずそうに「いや、レコーディングは二人で済ませました。」とのこと。何だか病院の方と相談したが、レコーディングのスケジュールの都合と折り合いがつかなかっただの、理由にもならない言い訳をしてその日は帰っていった。

 で、翌日、「実は昨日持って来た4曲のうちでボーカルの気に入った曲は何かと思って・・・」僕もかなりガク然とした気持ちにはなっていたが、それでも、いつまでもグダグダ言っていても仕方ないと思い直して・・・。まず、一曲目の「君の誕生日」まずこれは無し!! 何故ならば、このムード歌謡風の展開とそれに何よりも間奏に「学生街の喫茶店」のメロが入っているコト。ハッキリ言って問題外!! こうゆうのは、ある程度時間が経ってから、ちょっとパロディーっぽく、使うのなら面白いが、次のシングルになんて恥ずかしくて赤面モノでしかないと思った。と、当時は思ったが、後に時を経るにしたがって、どういう訳かこの曲が好きになってしまう自分がいた。が、あの間奏部分を除いてである。

 二曲目の「散歩」。これに決定と僕は言った。「レット・イット・ビー」風な曲だけど、二人の声とキラキラして、ゆったりした街の風景が目に浮かぶ詞も良いし、楽曲のスケール感が僕の心をしっかりととらえた。これに決定!! ともう一度僕は言った。これA面。三曲目の「君の肖像」は、僕の耳を通り過ぎて行ってしまった。四曲目の「憶えているかい」これは良い!! マークとトミーの唄のコンビネーションも歌詞の内容も二人の声質にぴったり、しかもマークの間奏のガットギターは最高!! しかし全体的にちょっと地味だから、これはB面。

 しかし、トミーもマークも忙しいさ中でのレコーディングでもあったし、本人達の意志はどうなんだろうかと思いつつも、その場で、もっととんでもない話をディレクターはし始めた。この4曲を深夜のニッポン放送の亀渕昭信さん(現ニッポン放送社長)の番組で流して、聴取者のリクエストの多いもの2曲をシングルにするという企画が決定しているという。あ゛―っ何ということだ!! ウカウカ病院で寝ているうちに、何だかドンドン芸能界しているGAROになっちまってるぅーっ!! 何にィーッ!! リクエストでシングルを決めるぅーっ!! もう、信じられないよ!! 何やってんだ俺達のグループは!! 誰だぁーっ!! こんなことを決めている奴は!!

 2枚目のアルバムで味をしめ、なおかつヒット曲を生んで旨味を知った狂気の大人群団は知らないうちに益々パワーをたくわえて、僕らを思いのままにコントロールし始めた。それもこれも当時の僕達3人のコミュニケーションが不足しているのを読んでの、今がチャンスとばかりの総決起といった様相を呈していた。ハッキリ言ってやり放題。好き勝手ここに極まりきってなもんであります。誰がやっているか、やらせてるかは明々白々、あの大人達の高笑いが聞こえてくるようだ。しかし、彼らにしてみれば、思い通りには行くわ!! 曲は売れるわ!! で、笑いが止まらなかったことでしょうなっ!! 気持ち良かったでしょうなっ!!

 しかして、そんな彼らの悪事が長く続くはずがないのは、半年もしないうちに、見えてくるが、まぁ、それは改めてということで・・・。深夜放送ゆえに入院中の僕は生では聞くことは出来なかったが、次のシングルが決まったという。何とA面は「君の誕生日」。B面は「散歩」。よりによって「君の誕生日」がA面!! せめてA、B、面を替えて欲しいと要求したが、願いは叶わなかった。リクエストでも一番が「君の誕生日」だった訳だから、それまでの話という事だった。それにしても、信じられない、こんなコトがあっても良いものかってなことばかりが続いていた入院中の1ヶ月であった。そして、いつの間にか、煙草の銘柄がハイライトからセブンスターに代わっていた。

 そんなこんなんで激動の1973年3月のコトでした。


第26回“1973年3月のコトを書いているうちにのコト(その8)”

2003.11

 入院生活も2週間が過ぎて3月の中旬、この頃になると、お見舞いの人達もいろいろと来てくれるようになったが、それでもごく限られた人達だけだったので、僕にしてみれば非常に楽な気を遣わないで済む入院生活だった。マァ、十二指腸潰瘍は精神的な問題などが色々とからんでなる病ということで病院も関係者も、かなり気を遣っていてくれたのかも知れない。

 体が落ち着いてくると、日々が退屈の繰り返しになり始める。なにしろ本は読まない方が良いと言われていたし(元々あまり読む方ではないが)あとはTVとラジオしかないわけであります。ラジオをつければ、どこの局のベストテン番組でも「学生街…」は1位。TVをつけても1位。しかし、TVに映し出されるのは僕以外の二人が唄う「学生街…」。自分が唄って来た唄であるし、ラジオから流れてくるのも自分の声、何百回と繰り返し耳になじんできた楽曲だが、TVから聞こえて来るモノだけが“違う”。何か違和感を感じる。違う曲に聞こえてしまう。曲が世界観が全く異質なものに聞こえる。

 ずーっと考えていた。二人の唄う「学生街…」を全国の視聴者はどのような感覚で見ているのか?誰もがレコードを買っているわけではないし、それにTVを観ている大多数の人はラジオとか有線などから流れて来るものであれ、それ程聞いていたわけではないだろうから、TVの画面に映る2人が唄うモノをオリジナルの楽曲として見ているわけだ。過去に聴いたことのない人は当然、その曲に対しては初体験ということになる。何か違う。やっぱりこの唄は自分が唄うべき曲ではないのか。観る度にそう感じることが多くなった。しかし、彼ら二人にとっては、「本当は唄いたくないんだけどな!!」などと思っていたのかも知れないが…。そんななかでも精一杯唄ってくれていたんだと思う。それなのに僕の中の違和感は変わることがなかった。二人が超のつく程、忙しいさ中に、僕はベッドで横になりながら、勝手な思いに翻弄されていた。

 毎日、病院には山のようなファンレターとか激励の手紙が来ていた。ほとんどがそうであった。しかし、そんな中でもかなりの数の多分1割以上はあったと思うが、僕に対する非難とも思える内容のものが多数あった。最もひどいのはカミソリ入りの封書が2通あった。噂では聞いていたが自分が受けとることになろうとは夢にも思わなかった。受けとって初めて「あゝ、こうして封を開ける時に指をケガさせるのか!!」と妙な納得をしたのを覚えている。

 時を同じくして、次のシングルのレコーディングがあるので、その時は病院に許可をもらってレコーディングに参加して欲しいという話をマネージャーから聞かされた。当然、楽曲はどうなってんだろうか? と思ったが、もうすでに曲は決まっているという。しかも又々村井さんとすぎやまさんの曲で、詞は山上さんであるという。すぐに思ったのは、二人は納得してるんだろうか? ということだった。詳しくは話さなかったが、納得しているということらしかった。レコーディングはあと一週間くらい後になるという。以下次号へ。

   大野真澄ライブ&トーク開催決定!

テーマ「岡崎の味のコト」

日時:11月9日(日)PM6:30~

会場:洋風懐石料理「ROPPONGI」 中町6-1-7

会費:9000円 定員:60名

申込み:(株)六本木 0564-23-8969

※記載のライブ告知は2003年のもので、既に終了しています。


第25回“1973年3月のコトを書いているうちにのコト(その7)”

2003.10

 1973年2月26日、横須賀文化会館。

 GAROが単独でやるコンサートとしては、経験のない程大きな会場は、超満員の客で、ふくれ上がっていた。

 幕が開いた。凄い歓声である。しかし、ついこの間までバックを務めてくれていた、ベースの小原礼とドラムスの高橋ユキヒロの姿はそこには無かった。彼ら二人はサディスティック・ミカ・バンドのメンバーとして迎えられ、バッキング・ミュージシャンから新たなミュージシャンへの道へと歩き出していた。とはいうものの、今回のライブレコーディングには、ピアノに柳田ヒロ、ベースに後藤次利、ドラムスにチト河内、サポート・ギターとして矢島賢といった顔なじみのメンバーばかりだったので、これという不安は感じていなかった。しかし、リハーサルは2日前に、しかも、新潟でのライブから帰ってそのまま深夜、真夜中から朝方までの1回のみ。そんな状況の中でも初のライブレコーディングのコンサートの幕は開き、いつもとは全く異なったアレンジの「学生街の喫茶店」からスタートした。

 どうしたことだ!? いつものコンサートの時と全く同じだ。大丈夫だ!! さっきまで歩くのがやっと、と云える程辛かったのに、リハーサルの時より、さらに普段と変わりなく唄えているではないか!! なんということだろう、いつも通りだ。唄もM.C.も何もかもがいつも通りというより、それ以上にこなす事が出来た。さらにステージで、小走りさえもしたくらいだった。そして、あまりにも無事にステージを終えることが出来た。しかし、終演直後に僕は再び、超のつく重病人に逆もどりしていた。

 しかし、そんな状態の中でも翌日、当時はスターの登竜門と云われた人気のトーク番組、フジテレビの「スター千一夜」の収録が行われた。司会の関口宏さんは僕達3人に、こんな事を言っていた。「以前、“小さなスナック”という曲を唄ったグループがいたけど、何てグループだったっけなぁ…!? あの人達は“一発屋”だったよね。今はどうしているんだろう? 君達の曲も“スナック”と“喫茶店”の違いはあるけど、同じだったりしてね」と。まあ、シャレのつもりで言ったんだろうけど、これから頑張ろうって気持ちでいる僕達にとっては、あまり気持ちの良いコメントではなかった事を覚えている。収録後、いよいよ僕の体調は悪化の一途で、ついに、そのまま病院で診てもらおうということになり、僕の状態を診た医者は即、車椅子、精密検査。有無を言わせず、そのまま即入院という事になってしまった。

 そして、次回はついにこの「1973年3月のコトを書いているうちにのコト」の最終回の予定?であるが、気が向いたら又、続くかも知れない、といったあいまいな気持ちのまま、以下次号へ。


第24回“1973年3月のコトを書いているうちにのコト(その6)”

2003.9

 1973年3月、とうとう「学生街の喫茶店」はオリジナル・コンフィデンス誌のシングル・チャートのトップに立ってしまった。そして、その後7週間もの間チャートのトップに居座り続けた。

 時を同じくしたこの3月、僕は病院のベッドでテレビに映る二人の唄う「学生街~」を複雑な思いで見ていた。

 丁度二週間前の2月26日横須賀文化会館に向かう京浜急行の中で僕はウトウトとしていた。この時は、もはや体に力の入る状態ではなく、座れば眠ってしまうという程で、体力もギリギリの限界状態に達していた。しかし不思議なものだと思った。別に苦しい訳でもなく、只々無性に眠いのだ。

 当日は初のライブレコーディングが行われる日であった。会館に到着した僕はほとんど動くことも出来ない状態で、平らな所は歩けるが、階段を一段たりとも上がることすら出来ない状態だった。頭はもうろうとしていたが、とにかくコンサートをやらねばという一念だけだった。他には、何も考えていなかったと思う。只々ステージに立つんだという事しか頭になく、今日、ここに来ている客の事も何もかもが、頭からはフッ飛んでいってしまっていた。今から、ちゃんとしたライブをやるんだと…。本当にそれだけしか頭の中にはなかった。多分動いていられるという事を確認をしたかっただけかも。というより生きているんだ、という確認をするために、ステージに立たねばという無意識の気持ちだけが、多分そこにあった。とにかく、ここ1ヶ月の間の下血と吐血はひどいものがあった。体が消耗していくのが自分でもわかる程ひどかった。しかし、スケジュールは満杯である。休むことなど考えもしなかった。

 そして、いよいよリハーサルだ。せいぜい2kg程度のギターでさえ重くて持てない。まるでコンクリートブロックを持ち上げるような気分だった。手伝ってもらってやっと肩に掛けてもらい、そんな状態でもリハーサルは始まった。しかし不思議だ。ちゃんと唄えるではないか。皆と一緒に唄えるではないか!! さっきまで、やっとの思いで歩いているという状態だったのにだ。

 しかしリハーサルが終わると、とたんに「何もかもどうでもいいや」って気分になっていた。そんな状態を見たスタッフが、本番迄時間があるから、一旦病院で診察をしてもらおう、という事になった。会館にほど近い、何とかという大きな病院へ行った。医者は怒っていた。僕にもマネージャーにも怒っていた。「こんな状態で、ステージに立つんですか? もし、もう一回でも下血か吐血があったら死んでしまいますヨ!!」と。「とにかく、即刻入院しなさい!!」との診断だった。しかし、医者の言葉は頭の中を通過しただけだった。もう止めることはできないのだ。やらなくてはいけないのだった。それ以外の選択肢は無いし。考えもしなかった。

(以下次号)


第23回“1973年3月のコトを書いているうちにのコト(その5)”

2003.8

 1972年12月20日キャロルのデビューの日、新宿のライブハウス「サンダーバード」は、超満員の、いわゆるマスコミと音楽関係者、当時の名だたるミュージシャン達で、その熱気は最高潮に達していた。

 そして、そのデビューライブのステージに最初に立ったのは何と、僕であった。

 プロデューサーのミッキー・カーチスさんからの依頼で、是非とも「キャロル」の素晴らしさと今後への期待など、思いのたけを今日来ている客に紹介して欲しいとのことだった。勿論、心良く引き受けた僕だったが、果たして彼等は前評判通りの演奏をしてくれるだろうか? という不安があった。それというのも今日はデビューライブにもかかわらず、実は正式なドラマーがまだ決まっていなくてトラ(本来のメンバーではなくて、その当日だけ演奏する「仮」のメンバーのこと)が入っていたからである。しかし演奏が始まるやいなや、そんな不安は、一瞬にして、音が出た瞬間にフッ飛んでしまった。今までサンプル盤の音だけを聴いていた耳には、その生のサウンドのタイトさとパワフルで、迫力のある演奏にドギモを抜かれてしまった。当然、客席も大喝采で受けに受けまくっていた。

 そして、ライブ終了後、興奮さめやらぬ中、僕はトイレに立った。用を足した後、手洗いをしていると鏡の中に、まだステージ衣裳のまま(黒の革ジャンの上下にリーゼント)の矢沢永吉の姿があった。僕に気付いた彼は「初めまして、矢沢です。今日はありがとうございました。」と、その荒っぽくハードなイメージとは裏腹にキチンとした挨拶に、ちょっと戸惑ってしまったが、僕の方も「いや、どうも!! すごく良かったヨ。」と。そして、すかさず彼は、僕に「今日はこれからどうするんですか?」僕は「明日も早いんで、今日はもう帰るけど…。」そしたら、彼は「だったら、今からちょっと遊びに行ってもいいですか?」僕は一瞬、えっと思ったが、「ああいいよ!」「そうすかぁ、じゃー伺います。すぐ着替えてきますから。」ということで、矢沢永吉は、知り合った、その日にずうずうしく?! も僕の部屋に遊びに来たのである。

 しかし、これが今日に至るまでの彼との付き合いの始まりであった。そして彼は同じ年令ということもあってか、会ったその日から、タメ口はきくわ、遠慮はないわで、そして二言目には「俺達は、すぐにお前等(GAROのこと)を越えてやるからなっ!!」などと、随分、高飛車な奴だと思ったが、物言いのハッキリした彼に新鮮さと、ある種の爽やかささえも感じて、いい友達になれるかもと直感した。そして、部屋に入るなりビールを飲むのもそこそこに、僕のギターを手にした彼は、出来たばかりだというオリジナルを聴いて欲しいと、次々と曲を披露してくれた。彼の唄う、僕には気恥ずかしいとしか思えないような、デタラメ英語の曲であったが、その素晴らしいメロディーラインに、僕は感心するばかりであった。

(以下次号)


第22回“1973年3月のコトを書いているうちにのコト(その4)”

2003.7

 1973年の2月末から3月迄、約1ヶ月と少し、僕は十二指腸潰瘍の治療で入院を余儀なくされていた。丁度30年前の話である。今回が4回目ですが、e-sedai及びリバーシブルのホームページなどでご覧の方は是非さか上ってご覧ください。

 1972年10月、4枚目のシングル「涙はいらない」を発売したばかりだというのに、約4ヶ月前に発売された3枚目のシングル「美しすぎて」のAB面をひっくり返して、B面に入っていた「学生街の喫茶店」をA面に入れ替えるという話が飛び込んで来た。あまりに唐突な話に寝耳に水といった僕達もア然とするばかりだった。何が何だか分からないまま、事はすでに進んでいた。

 北海道方面で有線のリクエストが増えていて、かなり評判になっているという情報は入っていたが、まさかこう云う事態になるとは思ってもみなかった。それに、この「学生街・・・」をステージで取り上げることは、ほとんどなかったしね。確か、冗談まじりで振りを付けて演奏した事が2回くらいあったような記憶はあるが。それにしても4枚目のシングルが発売されたばかりだというのに、それをさしおいて・・・・・・。正直言って困ったことになったもんだと思った。それでなくても、ゴタゴタ続きの時期であったからなおさらのコトだった。

 大体この「学生街・・・」が今月の唄になった時でさえ、大変だったんだから今回のこの事態はもう、何をかいわんやといったところで、案の定、納得出来ないのオンパレードになってしまったのは言うまでもないことだった。問題の上に又、問題が積み重なって、山のようになった問題の重みに耐えてゆくのがやっと、ってな気分の毎日であった。しかし、意に反して、この「学生街・・・」は、ジリジリとヒットチャートを上昇しはじめていた。

 そんなある日、僕にとっては息抜きとも気分転換とも思えるささやかな出来事があった。ファーストとセカンドアルバムのプロデューサーでもあったミッキー・カーチスさんからの電話だった。「実は聴いて欲しいテープがあるんでオフィスに来てくれないか?」と。仕事の合い間をぬって僕は出掛けていった。「カッコイイですねぇーッ!!」「だろー!! ビートルズ好きのボーカルなら絶対気に入ると思ってたのヨッ!!」。未だ歌詞の付いていないデタラメの英語だか何だかよく分からない言葉で唄う、そのグループに思い切り頭をガツンとやられてしまった。

 それは「キャロル」というグループのデモテープだった。実際、僕にとって、その衝撃は強烈なもので、凄いショックを受けたのを覚えている。しばらくして日本語詞の付いたデモテープを聴いて、又々その力強さに、増々この「キャロル」にのめり込んでゆく自分がそこにいた。それはまるで初めてビートルズを聴いた時のような感覚を味あわせてくれて本当にゴタゴタ続きの僕の気持ちをなぐさめてくれた。そして、自分達のことそっちのけで、友人達に「キャロル」を聴かせまくっている僕がいた。

(以下次号)


第21回“1973年3月のコトを書いているうちにのコト(その3)”

2003.6

 先々月から、このコトを書きはじめているうちにGARO結成前後の時期からのコトをなんとはなしに僕なりにまとめてみようかなと思い、マァ“プライベイト”なモノとして書き進めているところです。という訳で、これは1973年3月のコトとしてふと、モノ思った“今の気分”を詳細にではなく、コンパクトにまとめて書き進めていきたいと思います。では、前回の続きです。

 まずは中略(GARO“2”のレコーディングに関連しての部分)します。このアルバムを制作し、東京音楽祭用で3枚目のシングル「美しすぎて」は山上路夫・作詞、村井邦彦・作曲という作品であったが、僕らのイメージにも合うもので、実際メンバーも気に入っていたのは事実である。しかし、このB面の「学生街の喫茶店」は、単にアルバム用に録音された作品にすぎず、たまたま「美しすぎて」のB面になったモノでしかなかったのに、大きな物議をかもし出すのは、発売されてすぐの6月下旬のことで、それはTBSラジオのヤングタウン東京という番組の7月度の「今月の唄」にしたいという申し出から始まった。

 同じ時期に、吉田拓郎のパックインミュージックという深夜番組でもこのB面が取り上げられる事態が起り、その上に、僕が唄っている曲であることが、問題を余計に面倒で複雑なモノにした。だいたい、A面にしてもプロの作品でメンバーが良い作品であると認めてはいるものの、ある意味では妥協の産物であったわけだし、それなのにそのB面で、且つ僕が唄っている作品を取り上げるなんてのは、言語道断だ、という話になってしまったというのは簡単に想像がつくし、まさにその通りになってしまって、収拾するのが、かなり大変な状況だったことが、詳しくは書けませんが、昨日の事のように思い出される。

 とにかく、A面の曲があるのに何故、こういうコトになるのか・・・? 実際、このあたりから色んな事がギクシャクしだした。そんな中でも、並行して、3枚目のアルバムの制作に入ることになった。今回は、当然ながら全曲メンバーのオリジナル作品ということになった。そしてこの頃になると仕事は益々ふえ続けた。その上に今回はプロデューサーが瀬尾一三さんに変わるだの、新事務所を設立しないかという打診があったりだの、とにかく僕個人にとっては、楽曲を作ったり唄うことに打ち込むというより、他の色々なゴタゴタに対応しなくてはいけない時間がどんどん増えていった。

 それでも4枚目のシングルとして、A面がマークの作品で「涙はいらない」、B面はトミーの作品で「明日になれば」が発売される事になった。両面とも各々の個性が良く出ていて、僕も、今度こそはいけるじゃないかと思える納得の出来る作品であったし、ひそかにうまくゆけばヒットも!! という感があったことを覚えている。そしてこの曲の発売に合わせ僕らの初めてのソロコンサートが1972年の10月に、永田町にある都市センターホ-ルで行われ、いつも通り、そして今回のアルバムではレコーディングにも参加してくれた、ドラムスの高橋ユキヒロ、ベースは小原礼を従えてのステージであった。実は、この時、初めて三人は、お揃いで白のサテンの生地で衣装を作ったりもして、当日のコンサートも満員で大いに盛り上がり、大成功のうちに終わった。

 しかし、コトはその直後に起った。(以下次号)


第20回“1973年3月のコトを書いているうちにのコト(その2)”

2003.5

 前回の原稿を書く時に、そういえば30年前の今頃は入院していたんだなぁ、などと思いつつ、ふと当時のコトをふり返ってみようと書きはじめたら結構長文になってしまったんで、前回を1回目として何回かに分けて掲載させていただくことにしました。では前回からの続きです。

 とにかく制作者サイドの言い分としては、同時に発売された小坂忠の「ありがとう」と成田賢の「眠りからさめて」の2枚のアルバムは、いまひとつ伸び悩んでいる状態であるが、アルバム「GARO」はかなり順調であるという。しかし2枚出したシングルは今イチなんだが、もう少しの所まで来ている。ここはひとつ“実績のある”プロの作品(作詞はファーストアルバムでも書いている山上路夫さん。作曲は村井さんの他にすぎやまこういちさん)で、一気に盛り上げて売上を伸ばして、その後改めて又メンバーの作品に戻せば良いのでは? という提案が出された。しかし、そんな大人達の下心たっぷりの思惑など理解する術もないし、到底受け入れるコトなど出来るはずのない提案に対して、僕等3人とスタッフとのケンケンガクガクの議論は続いた。そして、そんな中で出て来た折衷案が(どうして、こんな案が出て来たのか? 一体誰が言い出したのか? も、はっきりとした記憶がないのだが・・・。)メンバー各々が、好きな外国アーティストのカヴァーをやったらどうだろう? というものだった。これが僕等のロック心? をくすぐったのかも知れないのかも!? その上に、プロの作家陣についても、過去に僕等3人が共通して好きだったという楽曲を書いている人達だったこと。外国曲の選曲も、僕らがステージで演奏していたり、これからやろうかなどと考えていたりするアーティストの作品を自由に選んで良いということだった。結果として、その通りになっているか、どうかは別にしても、たくみに僕達の心理状態を読んで、くすぐって来たのである。ミーティングは続いていた。

 しかし、実をいうと、この制作話が、何がどうなって纏まったのかは、はっきりとした記憶は残っていないのだが、とりあえず歌詞は日本語に訳して唄おうということになった。そして、その後選曲された外国曲5曲のうちの2曲(ブレッドのベイビー・アイム・ア・ウォント・ユー と マシューズ・サザンコンフォートのマイ・レディ)は僕が書くというコトになって、実は僕一人で訳詞を書いたのだが、その後アルバムが完成して、訳詞の部分の表記を見ると、なんとそこには、ガロ訳詞 となっているコトに驚いたのは、どうやら僕だけだったようだ。大人達は他のメンバーのご機嫌取りのつもりでやったんだと思うが、僕は大いに傷つけられた。今でも、この件は許せない思いである。しかしこんなことが平気で行われていた時代でもあったと云うコトだろう。

 そして、これら大人達の思惑で創られたこのセカンド・アルバム「GARO2」が、その後の僕達の方向をすっかり変えてしまうことになるなどとは、この時には想像もしていなかった。

(以下 次号へ)

P.S.  今頃になって、ふと気がついたんですが、冒頭にある大野真澄プロフィールのコト・・・。「70年、フォーク・グループ“GARO”を結成」とありますが、今となってはどうでも良いといえばそれまでですが、当時の僕らは“フォーク”と言われるコトを極端に嫌っておりまして、何度も雑誌社にクレームを入れて、僕らは“ロック・グループ”であると主張していたんですヨネ。次回から“何か”違う表記を考えますかねぇ~?


第19回“1973年3月のコトを書いているうちにのコト(その1)”

2003.4

 1973年の3月。12指腸潰瘍で入院中の僕は病室で、様々なテレビ番組に出演する二人組のGAROが歌う「学生街の喫茶店」を複雑な思いで観ていた。1970年11月に結成されたGAROは、時間を重ねる度に、確実に肥大化し、そしてその頂点に達したのが、この頃だった。

 結成して約1年後の1971年10月に「たんぽぽ」という曲でデビューを果し、同時期に、ファーストアルバム「GARO」を発表。翌72年2月には2枚目のシングル「地球はメリーゴーランド」が、パイロット万年筆のテレビCMに使用され、その上に画面にも登場(といってもこのCMの主役は所属するレコード会社の社長であり、作曲家でもあった村井邦彦氏であった。僕ら3人はその背後で、村井氏と共に「アイ・ディグ・パイロット」と一言、言うだけ)という快挙? も成し遂げ、前途は洋々かと思われたが、思った程のレコード売上げには結びつかなかった。しかし、アルバムの売上げは当時としては好調な方だったようだ。ステージの数も日増しにふえていた時期でもあった。

 1972年の2月から3月にかけて、当時日本でも絶大な人気を誇っていたアメリカのバンド「クリーデンス・クリア・ウォーター・リバイバル」(C.C.R.と呼ばれていた)のオープニング・アクト(早い話しが前座)をやったのもこの頃で、特に日本武道館での公演では、前座という分際にもかかわらず、最大級の声援と賛辞をもらったりしたものだから、グループの士気もおおいに盛り上がっていたというのも当然か…。

 そして時期を同じくして、すでに2枚目のアルバムと3枚目のシングルの制作話が進んでいた。今思えばずいぶんと早いテンポで事は展開していた感もあるが、当時は、そんなことを考えてる余裕すらも無かった。

 しかして、問題は起こった。近々、TBSテレビで東京音楽祭という番組が放送されるが、その番組に出品するための作品を、村井氏が書くからという、一方的な通告があった。そして、それを3枚目のシングルにするという。当然のことながら、メンバー全員猛反撥である。レコーディング契約の際、作品は全てメンバーのオリジナルでという、口約束ではあったが、取り決めをしていたから、納得出来る話しではなかった。その上にその番組用の1曲だけであると思っていたら、アルバムも平行して制作し、それらの楽曲は全てプロの作家の作品だけでいくと云う。話し合いをするというより押し付けのためのミーティングという感じで、話し合いもまとまるはずが無かった。

 (以下 次号へ)

P.S.  毎回、続くと表記してもほとんどは続くことがありませんでしたが、今回は紙面の都合でここで終りです。実は、本当につづきます。次回はますます盛り上がるかも(?) お楽しみに!!


第18回“NHK好きなコト”

2003.3

 年が明けて、はや1ヶ月。あさってはもう立春。

 今朝のNHKテレビのニュースで、名古屋は、ここのところ連日、0度以下の日が続いているとのこと。トップニュースは、どこの局もスペースシャトルの空中分解事故。実は、すでに前々日になってしまうけど、深夜0時のNHKニュースでこの事故を知った。

 めざとい人は、すぐにCNNへとチャンネルを切り替えるところだろうが、残念ながら、我が家ではBS、CS関係が受信出来ない環境であります。もし、見られる状況になったら、それはそれで、困ったことになるのは目に見えています。もう、一日中ニュースばかり見ていて、他の事が手に付かなくなってしまう事は明白であります。それでなくても普段からニュースのはしご状態で、とにかくどこの局のニュースも、“確認”したい訳であります。刻一刻と変化してゆく世の中の情勢を確認したいのです。

 その昔“事実は小説より奇なり。世の中には不思議な経験や体験をお持ちの方が、沢山いらっしゃいます。”と、かの故・高橋圭三アナウンサーが、NHKの「私の秘密」という、クイズ番組の冒頭で、毎回決り文句として喋っていたことであります。もう40何年も前の番組ですが、人並みはずれた、能力とか技術を持っていたり、普通では、あり得ないし起こり得ない様な体験とか経験などをした人達の秘密を暴くというか、当てるというもので、子供の頃、毎週楽しみにしていた番組のひとつであったのです。まぁ、ある種のバラエティー番組のたぐいといったところか。

 そういった意味で、作り事とか創り話しではない、感動的な出来事だったり、現実ではちょっと考えられない事件とか事故とかミスとか政治の問題とか、それらについての報道の仕方とか、カラクリだとかの真相というか深層とかを、自分なりに把握して、何がどういうコトなのか考えを巡らせ思いを巡らせ紐といてゆくと、謎だらけ、不可解なことだらけ、解らないことばかりがドンドン増えてゆく…。世の中、理不尽のオンパレード、それでも知りたいことだらけ…。そんなわけですから、ここ最近見るのは、結局、ドキュメンタリー、ノンフィクション、記録ものとか歴史ものに、ということになってしまう。

 それと、もうひとつ気になっていることがあります。最近のバラエティー番組を見てて思ったコトですが、ある一部のタレントが、一般の人とか客とかから、ある時は他の出演者に向かって“オマエ”呼ばわりするシーンを、よく見かけるんだけど、実は、アレが僕には許せないんですヨ。ホントに見てて気分が悪くなる!!“テメェー、何様のつもりだっ!”って、僕も見ながら悪態ついてんですけどね。ある歌番組じゃ2人組のタレントに頭ハタかれて喜んでいる歌手がいるもんだから、もう何をか言わんや!? 世の中どうなっちまってるの? と、もう“ヤ”んなっちゃう訳なのよ!! 別に昔の方が良かったと、懐かしんでいるんではないし、全部のバラエティー番組が悪いという訳じゃないんだけどね。まぁ、僕も凡人ですから、世の中、こんなもんじゃなかろーかなどと思いつつも、もうちょっとはマシになるんじゃないのかな? などと期待しつつ、時の流れの中で潰されないようにと、ニュースへニュースへとなびいてしまったりで…。思えば、最近はNHKを観ることが、やたら多いですね。

 そういえばオヤジもNHKが好きだったなぁー。


第17回“寒さゆえのこと?のこと”

2003.2

 この冬は、ずいぶん早い時期に雪が降ったもんです。12月の初旬に雪が降ったことの記憶をたどると、確か高校2年生の頃だから、かれこれ30数年前か。12月の7日か8日に大雪が降って、通学中の電車が大幅に遅れて、学校に大遅刻してしまった事が甦ってきた。

 そして、2003年も年明けから、寒い日が続いている。子供の頃は、これくらいの寒さが普通で、寒いという事も、何の抵抗もなく受け入れていたし、当たり前といえば当たり前で、冬は寒いもんだった訳なんだけど、それがどうした事だろう? 一体いつ頃から冬の寒さをホントに寒いなァーっていう、受けとめ方をしなくなったのは…。

 生活習慣のせいなのか? 温暖化のせいなのか? こんなに寒く感じるのは、気温が低いからに決っているが、11月の末あたりに、まず手袋が欲しいなって感じたし、12月になると耳あて(何ていうんだっけ? 耳パット?)までも欲しいと思ったし、モモヒキ(最近はタイツ? )をはきたくなっているもんねぇー。これも何年か前にスキーに行った時以来はいてないし、思えば小学校の頃から数えて40数年も必要だと感じたことは無かったね。しかし、これ程までも寒さを感じるのは、やはり年令が関係しているのか?

 だけど、冬はやはり寒い方が良い!! 寒ければ寒いほど良い。どういう訳か、寒ければ寒いほど、幼い頃を想い出してしまう。澄み切った、まっ青な空に凍てつく北風。しもやけ、あかぎれ、堀りコタツ。赤鼻に、ち切れそうな耳と田んぼの氷。校庭に降る横なぐりの雪。霜柱をザクザク踏みつける凍りそうなツマ先。そして思い切り冷たい空気を吸い込んで、冬を満喫!!

 ひと昔前まで、やっていたハナマルキ味噌のCMに映し出された田園風景を見るたびに、胸がキューッとしめつけられて、切なさとそして不思議なくらい、シーンとした冬を感じたのは僕だけだろうか?

 東京に移り住んでから、すでに34年。故郷岡崎での生活はたった18年。それなのにことあるごとに、僕の心は岡崎に帰ってしまう。


第16回“妙なことに感心したイベントのコト”

2003.1

 何年か前まで新宿・歌舞伎町のド真中にあった噴水も、今はもう無い。しかしその正面に建つ、新宿コマ劇場は歌舞伎町の顔というかシンボル的存在といえるだろう。近々50周年を迎えるという。実は30年近く前に、この劇場のステージに立ったことがある。しかし、どういう訳か、その時にも、すでに随分と古い劇場だなって感じたことも覚えている。

 2002年11月の末、3日間のイベントで本当に久し振りに、この劇場へ。楽屋口から入って左に曲がると、すぐに各楽屋へ出演者を運ぶためだけの、エレベーターがある。大小、数えきれない程の楽屋が迷路の両側に連なっている。余談だが、初めてこの劇場に来た今回の出演者のBORO氏は、自分の楽屋を探すのに30分もかかったと言っていた(僕の隣りの部屋だったんだけどね)。

 リハーサルの時に、実は初めて客席に入った。どことなしに舞台に対してかなり横にあたる位置に座ってみた。座ったとたんに、ヘェー! 見易いなぁーって感じて、前にうしろにと色んなところへ移動して座ってみた。この劇場の舞台は客席のどこからも見易く、椅子の座りごこちもとても良い。舞台が客席に対して半円形になっていて、客席もそれに沿って、半円形に並べられているからなんだろう。お客さんにとってはとても良い劇場と言えるんだけど…。

 しかし古い劇場っていうことで、舞台の裏とか脇とかはかなり狭くて、テレビの中継などで見たことのある、大がかりな舞台装置などは、この狭さのなかで、一体どうやって転換しているのだろうか? と、不思議な気分になってしまった。今まで色んなホールでコンサートをやって来たけど、こういう形のホールには、あまり出会った事がないなと。特に地方には最近新しいホールが沢山出来ているのに、こういう歴史のあるホールを参考に(まっ、してないはずは無いと思うが。)出来ないもんなんだろうか? などと、ふと思った次第!! しかし、なんで、こんな事が頭をよぎったのか、良くわからんのですが…。

 さて今回のイベント。NEW新宿音楽祭・FOREVER'70sと題されたこの催しは、70年代に活躍したアーティスト達をジャンルにこだわることなく、取り混ぜ、当時の名曲の歴史をひもときつつ、構成されたイベントでした。ちなみに、この模様はドキュメンタリーという形で、年末12月31日大晦日に、フジテレビ系列で(午前10:00~11:45)放送されます。

 過去には、ジャンルを問わずという形態でのイベントはなかなか難しいと思われて来たんですが、ある意味では画期的な出来事だったのかもしれません。次回というか今後は、ジャンルだけではなく年代も越えて、色々なアーティストが参加して、より大きなイベントに発展させることが出来ればなどと、思ってしまった3日間のイベントでした。


P.S. ちなみに今回の出演者です。

西條秀樹、錦野旦、あべ静江、桑名正博、尾崎亜美、ビリーバンバン、杉田二郎、南佳孝、太田裕美、鈴木康博、沢田聖子、ブレッド&バター、鈴木ヒロミツ、つのだ☆ひろ、内藤やす子、BORO、丸山圭子、森田貢、そして大野真澄、でした。

※記載のテレビ放送告知は2002年のもので、既に終了しています。


第15回“携帯電話のこと”

2002.12

 昨年10月に、この連載が始まって、ふと気が付けば1年が過ぎていました。実は今回が、1年の節目かと思いきや、何と15回目だという事に、書き始めてやっと、気が付いた次第です。本当に時間の経つのは早いものです。

 早いといえば、僕が携帯電話を持ちはじめて、この10月で丸っと10年になりました。携帯を持つ少し前、持っている人を見ると、あーいいな、うらやましいなぁー!! などと思う半面、ちょっと待てよ、歩きながら得意げに大声で喋っている姿を見ると、自分はあぁいう風にはなりたくないもんだと…。黒とかベージュのレンガのような大きさのモノを耳につけてるってのは、いかにもこっけいに見えたもんです。しかし、その後は急激にサイズが小さくなり、歩きながら話す人もどんどん多くなり、以前のような不自然さは感じなくなった(只、見慣れただけかも?)ものの、街中の風景にはそぐわないし、公衆電話があるんだし、別に必要ないんじゃないのか? などと思っていたわけです…。

 がっ! ある日、当時の事務所の女の子から、「ボーカルさん(と、さん付けで呼ばれる事が多い)携帯電話を申し込みました。今週中に届きますので、受取りに来て下さい。」との電話が入った。おっ、ついに来たかっ! 自分の番が!! ってなもんで、「ケータイ」(自分でもつことになると、何故かこういう表記になる)に対しての、それまでの色々な諸々の中傷やら批判やらは、一気にどこかへ消え失せ、只々「ケータイ」が届く日を心待ちにしている自分に対して、何の疑問も持たなかったってのは、全くもって勝手なものである。

 しかしついにその日はやって来たのであります。僕が持った最初の機種は、パナソニック製で(P―104?)、当時としては、一番サイズの小さなものでありましたー、それでも今のと比べたらかなりデカくて重かったー。まずは電源をいれようと、電源と書いてある赤い電話マークをピッと押したのに入らないっ!!ど、どうした事だっ!! 新品なのにすでに不良品ではないかっ! あーっ、なんという事だっ。せっかく手に入れたというのに。どうなってんだぁーっ!! と。しかしここでふと説明書があることに気付いてはみたが、電源が入らないのに、こんなモノは読んでも仕様がないなどと思いつつも、まぁー、一応は読んでおくかと、気を取り直し、まずは取り扱いの最初を読んだ瞬間に、問題は解決してしまった。

 なぁーるほど、読んでみるもんだと、納得しきりであったが、しかしこの程度の機械に取説など見なくても扱えるはずだ! 大体、今までだってこの手の電化製品(AV機器等)は、マニュアルなど読まなくてもやってこれたんだっ!! という自信で(自信だなどと、自慢する程のコトではないが)、あったはずが、過信であった事に気づき、たった一人の事務所で、気まずい雰囲気になり、赤面する男がいた…。がっ、この事は誰にも見られてはいなかったのだ。いゃーっ、良かった、良かった。そして直後に打ち合わせの予定が入っていたその男は、事務所近くの表参道の交差点あたりを歩きながら誇らしげに、電話する姿を万人に見られていることに、気づいてはいなかった。

 なお、この項はすぐには続か無いかもしれないが、そのうち、続く!!


第14回“もう2~3曲、足りないこと”

2002.11

 先日、新潟の巻町で、「アコースティック・ジェネレーション2002」と題して、杉田二郎、伊勢正三の両氏とのジョイント・コンサートを行ないました。とはいっても各々がソロでやるわけではなく、互いの持ち歌も含め一緒に演奏し歌い、コーラスをしたりというものでした。リハーサルの時間が少なかったにもかかわらず、かえって、そのおかげで緊張感のある楽しいステージが出来ました。

 2人とは30年来の知り合いであり、同じステージにも何度か上がったことはあるが、一緒に演奏をしたのは初めてで、久しぶりにグループで、やっているっていう気分を味わえて、心地良い時間を過ごしました。

 杉田二郎さんは「シューベルツ」のメンバーから、あの“戦争を知らない子供たち”の「ジローズ」そして現在はソロで。伊勢正三さんは「かぐや姫」を経て、“22才の別れ”でおなじみの「風」を結成後、イルカの“なごり雪”などの作者でもあります。最近では、山本潤子さん(元、赤い鳥、ハイファイセット)とのユニットでも活動していました。そして僕も「GARO」をやっていたという事で、3人がそれぞれグループとしての活動をしていました。

 そして今回のコンサートですが、全16曲中8曲を全員で演奏し、それぞれのソロコーナーに加え、二郎ちゃんのコーナーでは正やんがサポートしたり、各々2人での演奏があったり、勿論それぞれの、あのヒット曲も随所に配置したり、こんな曲もやるの?ってな曲を入れたりで、すごくバラエティーに富んだコンサートになりました。

 まず一曲目は全員で定番の“あの素晴らしい愛をもう一度”から始まり、本編の13曲は、あっという間に終わり、アンコールでの3曲も無事終了。時間を見ると正味1 時間45分のステージでした。幕が下りた瞬間、誰ともなく「あと2~3曲あってもいいなっ!」とか「ソロのパートに1曲ずつ」とか「いや、いや全員であと2曲やるのもいいね」とか「もう一回、皆で相談しよう」などなど…。そして打ち上げの場になって話しは更にエスカレートして、ついにはオリジナル曲を創ろうって話しにもなってしまいました。ヘタをすると、このユニットは今後、さらなる発展を遂げる可能性が大いに期待出来るかも…。

 しかし、ちょっと待てよ、このコンサート(次のスケジュールなんてあったんだっけ?)は、今回一度きりのものだったはずなのに、スタッフも含め、誰もが次回は…、の話しに不自然さを感じなかったし、しばらくはこのユニットのライブを続けていくのが当然だって気分になってましたね。せっかく新たに創り上げたステージだし、こんなに、僕等もお客さんも楽しめて、しかも中味の濃いコンサートになったんだから、もっと多くの人々に観てもらいたいって思いましたし、今回は3人ともソロでやる時程の、気負いが無かったってのが、なおのこと良かったんじゃないかな?

 という訳ですから、これはもう観てもらわないと、体現してもらわないと解ってもらえないですよね。ですから、全国のイベンターの皆さん、そして特に岡崎の皆さん、こうなるとこの3人でのコンサートを開催するしかありません。次回は“もう2~3曲、足りないこと”なんてことはありません。どうでしょう来年早々にやるってのは?その前に、来る11月23日(土)に、豊田のホテル・キャッスルで、僕のソロライブ(ディナーショー形式)です。是非観にいらしてください!!

※記載のライブ告知は2002年のもので、既に終了しています。


第13回“デタラメなこと”

2002.10

 8月初旬に、週刊文春に掲載された件では色んな方々に、ご迷惑とご心配をお掛けして申し訳ありませんでした。あれからほぼ一ヶ月が過ぎましたが、今回は僕なりの気持ちを書いてみようと思います。まァー、一言で言えばまさに詐欺に会ったという心境ですが…。

 まず、最初に雑誌を手にして見出しを見た瞬間に血の気がザァーッと引いていって、直後に頭に血が上り、そのせいかひどい頭痛が僕におそって来ました。言葉が出なくて、ア然としてしまいました。まさに、「なんじゃ! こりゃー!!」ってな感じです。しかもあのような記事が載った3日後には、NHKの番組で、この“学生街の喫茶店”を唄うわけです。自分にとって大切にしてきた楽曲をこんな形で簡単に片づけられてしまい、その上に、この曲を長年唄ってきた自分は、一体何をしてきたんだろうか、と悲しい気持ちにさえなってきました。

 それにしても今回の取材は、僕個人の現在の活動を紹介してくれるというもので、GAROのことを題材にするというものではなかったのです。ですから、今後の事も含め前向きな姿勢で取材に望んだという次第です。

 ということで、ああいう見出しは勿論のこと、内容がとんでもないものになっていた事に仰天したわけです。しかも事実に沿ったものであればまだしも、もう無茶苦茶です。そんな中で現在の僕と事務所の姿勢として、GAROに関しては特に2人のことですが、日高は存命ではないし、堀内は現在は没交渉の状態ですから、今はメディアに対しての発言は控えるようにしています。まぁー取材中にGAROの話しは出ましたが、見出しのような内容の話しは一切出てないし、なごやかなものでした。それなのにあんな記事がでっち上げられてしまいました。

 僕の活動状況の話しは、一体どこに行ってしまったんでしょう? 最後の最後に何かとって付けたように、つじつまの合わない事が書いてありましたが、約束した9月4日のライヴの告知すらしてくれませんでした。しかも現在の僕をということで、ステージ用で使っている帽子と眼鏡にわざわざ代えて写真を撮ったのに、掲載されたものは、インタビュー中に撮ったと思われるものを使っている始末です。もう何もかもお話しになりません。本当に全ての文面に怒りを感じています。

 少し時間が経って最近思うのは、世の中色んな報道であふれまくっているわけですが、どんなに良い記事でも悪い記事でも、ホンマかいな? 果して本当のことか? キチンと伝えられてんのか? ニュース大好き人間の僕としては、ちょっと大袈裟かも知れませんが、過去のいろんな報道の中で感じてきた喜び、怒り、悲しみなどなど…。すべてがむなしく思えてきてしまう程、ショックな出来事でありました。

 人と人との関わりがどれほど大切なことかということも踏まえ、普段、誰でもが目にし耳にする物事の本質を見極められる冷静な心を持ちたいものです。


第12回“GAROがジョイントした人達のこと”

2002.9

 僕らがGAROを結成した当時、最初のジョイントというか一緒にステージに立たせてもらったアーティストといえば、トワ・エ・モアでした。まぁ扱いとしては彼らのバックコーラス+自分達のコーナーで15分くらいの演奏をやらせてもらいました。その後1971年の春頃からは、いわゆるロックコンサートでのジョイントで、日比谷の野音には数多く出演しました。いわゆるエレクトリックを使ったハードロック主体のコンサートでしたから、僕らも前半はアコースティック、後半はベースに小原礼、ドラムスに高橋ユキヒロを加えて、いつも大体40分くらいの時間をもらって演奏してましたね。1971年の10月に僕らはデビューしたんですが、丁度時間を同じくして“赤い鳥”と同じ事務所に所属することになりまして、その頃からですね、いわゆるフォークと呼ばれている人達とのジョイントが多くなったのは。

 しかし当時の僕等はフォーク系の人達には、すごく違和感を覚えていましたね。っていうのは、中学から高校にかけての頃に流行っていた、カレッジフォークの延長線にあるような音楽っていう印象が強くて、僕らにとってはひと時代前、ちょっと古いスタイルの音楽って感じがしていたんです。ロックの未来(?)を目ざしていた、僕らとしてはエレクトリックとアコースティックの新しい融合とはどんなものか?(所詮は、C.S.N&Yのモノマネ的バンドではありましたけどね。)ってな、テーマを持ちつつやってた訳であります。なのに、アコースティックギターで演奏しているという形態のみで、いつのまにかフォーク系というレッテルを貼られてしまって、当時3人とも、なにか違う流れの中に入れられてしまったんじゃないのか? っていう思いが強かったですね。

 しかしそんな中でも、最も強烈に印象に残っているジョイントコンサートがあります。何回やったかは覚えていませんが、このバンドだけは他と全然違うって思ったんです。“RCサクセション”です。ハッキリ言って変なバンドだなぁ~って思っていたんですが、あのオリジナリティーには脱帽していました。どうせ一緒にやるんなら、それぞれのオリジナル曲を交換して演奏しようよって話しになって、RCサクセションは“地球はメリーゴーランド”僕らは“僕の好きな先生”をそれぞれ演奏しました。忌野清志郎の“地球はメリーゴーランド”は圧巻でしたね。完全にオリジナルになってましたよね。やっぱり清志郎はスゴイって思いましたね。僕らも彼らの曲を、少しテンポを落として三声のハモにして、演奏しました。これもすごく気持ちのよい仕上がりになりましたね。何だか懐かしいですね、とても楽しかったのを覚えています。誰かこの時の音源を持っている人がいたら、是非手に入れたいもんですねー。余談ですが、一時期僕は三浦友和さんのレコーディング・ディレクターをやっていたんですが、彼から“昔、大野さんに会ったことがあるんですよ”って言われて、覚えていなかったんで、何処でって聞いたら、“RCサクセションとやったジョイントコンサートでの楽屋で”って言うんです。何故そこにいたの? って尋ねたら“清志郎と同級生で、彼らに誘われて見に行ってたんですヨ”とのこと。後日、清志郎がTVの何かの番組で、“僕は三浦友和と同級生なんですヨ”って、照れながら言ってたのを思い出しました。

 それにしても、数多くのアーティストとジョイントしましたが、ここであげるとすると(イベントでのコンサートは除いて)最も多くやったのが、かまやつひろしさんとアリスで、あとは井上陽水、五輪真弓、バズ、チューリップ、ソロになってからは、吉田拓郎、風、アルフィーなどなどありますが、やっぱり一番強烈な印象が残っているのは、RCサクセションですね。


第11回“よくあること”

2002.8

 先日、行きつけの飲み屋で深夜まで友人と飲んでそろそろ帰ろうかと、席を立とうとしたところ、閉店間際にもかかわらず、なじみらしい客が入ってきた。僕等が帰ってしまうと、その客一人になってしまうので、少々店に気を遣ってもう一杯、飲んでいこう、ということになりました。しかしこういうのが間違いのもとになってしまうということに…。

 僕の隣に座ったその人物(かなり酒が入っていて、年の頃は60歳くらいか?)は、いきなり、

「君、やっぱりサッカーは面白いよなぁ!」ワールドカップの真只中だし、アーアー、仕方ないなぁー、などと思いつつ、

「そですねぇー、日本も頑張ってますよねぇー。」と、気のない返事を返したら、

「何、なんだよ、その言い草は?」

「えっ、なにがですか?」

「日本中がこんなに盛り上がってるのに、そんな言い方はないだろう?」

「そうですか? サッカー、あんまり見ないんで良く分らないですけど、ちょっと騒ぎ過ぎだと思いますよ。どうせ大会が終わったら、ほとんどの人は見なくなっちゃうんじゃないですかねぇー。まぁ、学校のクラス対抗が国別になって盛り上がってるようなもんじゃないんですか?」

「いゃ、サッカーが面白いから盛り上がってるんだよ!!」

「まぁー、そういう人もいるかと思いますが、それだけだったら急に、こんなに盛り上がらないですよ。たまたま、今回はサッカーというだけで、昔オリンピックの時にバレーボールで盛り上がったのと同じじゃないですか? さっきも言いましたけど、町内対抗とかクラス対抗とかってのが、国対抗になったんで、こんなになってるだけで、他に共通する何かがあれば、別にサッカーじゃなくてもいいんですよ、きっと!」

「何、言ってるんだ! サッカーも分らないくせに!!」

「だから、さっき言ったじゃないですか、見ないし、よく分らないって!!」

「見りゃー、いいじゃねぇーかぁーっ!!」

「だって、そんなに興味ないんですもん。」

「こんなに面白いのに、なんでなんだぁーっ!!」

「だからワールドカップはそれなりには見てますし、感動だってしてますヨ。そんな程度なんですよ、僕は別に悪いことだと言っている訳じゃないし!」

「サッカーのルールも知らないから、本当の面白さも分らん! だからそんな事が言えるんだ!! あんた、どうしょうもねぇーなっ!!」この人増々、酔いが回ってきたみたいなんで、

「そうなんですヨ。どうしようも無いですヨ。だから人に押し付けないで下さいヨ。サッカー好きだったら、今頃そうだ! そうだ! って盛り上がってますヨッ!」と、言ったところで状況を聞いていた友人が、

「そろそろ帰ろうか? 盛り上がりたい気持ちは分らんでもないけど、ちょっとしつこいよなぁー。」などと話しながら隣を見たら、その人がいないんだよね。僕らはカウンター席に座ってたんだけど、彼はボックス席の方に移って、うなだれちゃってんだよね。困ったもんだなと思いつつ、そろそろ帰ろうって事になって、その人にも、

「じゃー、帰りますんで、色々すみませんでした(別に謝る必要もないと思ったが)」と挨拶したんだけど、完全に無視されちゃいました。

 多勢に無勢って状況でも無かったんですが、それにしても大人げない人だなぁーなどと思いつつ帰路についたんですが…。

 帰りのタクシーで、まぁーこんな時期で、酒も入ってんだから、少しは話しを合わせてあげれば良かったか? どっちが大人気ないんだ? などと思いつつも、一方では日本が勝ち進んでゆく度、大きくなる騒ぎに、? を感じていた訳で…。

 ある日TVのワイドショーで、W杯の話題についてコメンテーターが「僕はあまり興味がないんで…。」とコメントしたら「そういうのは非国民!!」って感じの事を言った某キャスターがいたんだけど、その言葉に、先のコメンテーター氏が恐縮しちゃってる訳。こういう状況が怖いなって思いましたね。廻りの勢いに押され、ちゃんと“モノ”が言えない状態。こんなところでも力関係が歴然!

 こんなことが国のレベルで別の問題が起こった時はどうなる? これが“ニッポン! チャラン! ポランッ!!”シンドローム。案の定、ワールドカップも終わってみれば、やっぱり“祭りのあとのさびしさは~…♪”ということで、少々せつない感じもするけど、まぁー、“僕達”は結局こんなもんなんだなぁー、ってなことですな。

 これが? 平凡なことってこと?


第10回“結論・踊ることは気持ちいいこと”

2002.7

 最初に結論づけてしまえば、前回にも書いたと思うが、それはすごく原始的で、心も体も自由に自然な状態になり、全てを解放しちゃうと、響いているリズムに気持ちは自然に同化して、体が動いてしまうことなんじゃなかろうか。

 そういえば、僕も一度だけそんな経験をしたことがある。今迄、色んなコンサートに行っているけど、印象に残っているのはやっぱりビートルズだね。しかしビートルズのコンサートってのは“観るということを感じに行った”ってところかなぁー。今となれば、観に行った事だけに価値がある。という事だね。演奏なんて歓声がうるさすぎて、全く聴こえなかったし、ステージも遠すぎて、あー本物のビートルズらしき人達がいるっていう程度のものだったしね。歓声がすごかったといえば、ベイ・シティー・ローラーズも凄かったね。ただ彼らの場合は、ビートルズの時代より、PAが発達していたんで、うるさい上に今じゃ考えられない程、これでもかっていうくらい、ヘタな演奏を聴かされてっしまったなぁ…。だって途中で演奏が止まっちゃったりしたもんねぇー。ったく、信じられないよ。

 話しはそれっちゃったけど、僕自身、自然に体が動いて手拍子を打っていたのが、今は亡き、ボブ・マーレーのコンサートの時、一度だけだね。それは確か1980年頃だったと思うけど、年明けからボブ・ディラン、アース・ウィンド・アンド・ファイアーなどが来日して、両アーティスト共素晴らしいパフォーマンスを見せてくれて、その時はこれまで観たアーティストの中では、ディランとアースが最高! って思ってしまうほど感動したライブだったんだよね。そんな中、ボブ・マーレーに関しては勿論知ってはいたし聞いてもいたけど、レコードを買う程ではなかったんだよね。だからコンサートのチケットも買ってなかったし。そんな折、知り合いから厚生年金ホールの最前列どまん中の席がキャンセルになっちゃったんで、買ってくれないか? って連絡があって、まー観とくかってな程度だったわけ…。ところが、始まって2曲目の後半あたりから、全く気付かなかったんだけど…。立って、リズムに合わせて手拍子している自分がいるわけなのよ。何故、自分がそうしたかは分からないけど、ただただそうせずにはいられなかったし、えらく解放された気分というか、とにかく乗らずにはいられないって感覚が残っているんですよ。しかし、それでも一瞬ふと我に返って横とか後の席を確認したら、全員がスタンディング状態だったんで、なにやらホットした気分になったことを思い出したなぁ~。

 頭ではなくて、心と身体にダイレクトに入ってくる音楽、リズムっていうのは、そんなもんで、理由づけなどは必要ないって事だよね。だから、何で踊るのか? なんて考えても“仕様が無いコト”。気持ちいいから体が動く。気持ちがいいから心が乗れる。気持ちいいから楽しく踊る。やっぱ“気持ちいいコト”皆、好きだからね。

 東京に戻って、近所の大手スーパーの前でイベントをやっていた。ラップのチームがお揃いのユニフォームで、すごいパフォーマンスを見せてくれていた。確かにカッコイイんだけど、見ている人達の体が動いてなかったのは“どうしたコト”なんだろう?


7月20日(土)、バレンタイン・カフェにてライブをやります。開場18:00 開演18:30 詳細は0564-28-8755(バレンタイン・カフェ)まで。

※記載のライブ告知は2002年のもので、既に終了しています。


第9回“「踊ること」”

2002.6

 先日、帰省した時(勿論、岡崎)、ライブカフェG-ラッシュで、生演奏と共に、踊っている人達(僕は踊らない)を見て(別に観察をしていた訳ではないが)、ふと頭をよぎったコト。

 アップテンポのものはほとんどが、50~60'Sのオールディーズ・ナンバーなんで、時代的にいえば、当然ツイストかもしくはジルバ、マンボないしは、モンキーダンスとかゴーゴーといったところか? 若い人たちにはなじみのない踊りだよね(ゴーゴーってのは70年代の初めだったかな?)。でも、若い人も踊ってたなァー。

 しかし、見ていると(あくまでも、僕は踊らない。いや踊れないといった方が正しいかも)ここにあげたダンスが全て混じってしまっているワケ。まぁーツイストが多かったけど、皆とても楽しそうで全然、形になんかこだわってないヨね。いやいや、ホント楽しそうでいいんだけど、ふと何で踊るんだろう? 何が楽しくて踊るんだろう? 何が踊らせるんだろう? なーんてことが頭をよぎってしまった。

 物心ついた頃、最初に接した踊りといえば盆踊りだったかな? 皆お揃いの浴衣を着て(多分お揃いではない。お祭りのはっぴと間違えてるのかも)同じ振りで、中央にある急ごしらえのやぐらの廻りを(あそこには必ず町内会の総代さんとかお偉えさんとか派手な格好をした歌手とか太鼓とかが乗っかっていた)廻る訳だけど、どうにも僕にはあの輪に入る勇気はなかった。それは、浴衣を着ていないからだと自分に言い聞かせていた。

 で、いつ初めて踊ったのかといえば、皆がトキメイタあのダンス、曲は勿論“オクラホマ・ミキサー”!! そう、フォークダンスだった!! 好きな女の子の番が回ってくるのを心待ちにして踊ったもんだけど、女の子の手に触れるドキドキ感のみが先に立って、それが嬉しいだけで、どうにもあの振りは、好きになれなかったし、楽しかったって記憶もないなー。大体あの挨拶するみたいな振りが恥ずかしかったんだよなー。そーだその時から、踊ることについて考えていたのかも知れない!! 40年近くも、ずーっと!! そしてついにそれについての疑問をここに初めて解明しようとしているのだ。

 で、まぁー、バレエとかミュージカルとか踊りそのものを“見せるために”、というものを除けば、ほとんどの踊りは集団でやっているような気がするけど… どうだろう?

 70年代はブラックミュージックに合わせて皆が同じ振りを付けてたけど、いつの頃からか、あのお立ち台ギャルの時代は決まった振りなど、なかったみたいだし、いや、最近はパラパラが集団同じ振りだよね。最も新しいといえば“トランス”といったところか。しかしあれは個人の陶酔状態が集団化してるって感じがするけど。多分、自分の部屋で一人だけでトランスしてる人はいないと思うなー(いや、ヘッドフォンして一人で“イッちゃってる”奴って意外と多いかもなぁー! 考えてみると僕も、ヘッドフォンの大音量状態では“ヤバク”なってるかも)。と、ここまで書いてきて、なんだか言いたいことが、あやふやになってきたようだが。

 まぁどちらにしても精神の解放(ちょっと大袈裟か?)とでも言うか、自然体で自由な気持ち(気分)になるという事ではあるまいか? それが踊るということか。解明は多分次号へと続いてゆくのであります。が、このままでいくと結論はかなり“ゆるい結果”ということになるかも…。揺れてる、揺れてる!


第8回“「出会うこと」”

2002.5

 普段、都内を移動する手段としては大抵の場合電車(地下鉄、私鉄、JR etc)を利用している訳である。勿論深夜とか、楽器とか衣装とか、荷物が多くなった場合は、タクシーを使うということになってしまうが、バスを利用することはほとんどないといっていい。何故ならご察しの通り、渋滞の多い昨今(昔からか!)時間が読めないからなんだけど、ふとゆったりバスで…と思わないこともないんだけどね。

 こうしてほとんど毎日、電車を利用してるわけなんだけど電車の中にはいろんな風景があるんだけど、(この人間観察的なことは又改めて書くとして)ふと不思議な事に気付いたんだよね。僕の場合、仕事柄定時に通勤とかどこかに行くという事がないせいもあるんだけど、東京に来て30年あまり、これだけ長く住んでるのに電車に乗った時、いわゆる知り合い(友人とか飲み屋で会った顔見知り等)という人達と出会う事って、凄く少ないよね。僕もかなり行動範囲が広くて都内のあらゆる場所に出没するし、勿論自分の事務所に行く時は同じオフィスの人だったり近所の会社の人だったりの知人がいるのにもかかわらず、同じ電車に乗り合わすことはほとんどないよね。

 しかし、別に会いたい訳でもないし、もっといえば本当はそんなところで会いたくないってのが本音。マッしかし、いろんな人間関係があるわけで、仕事柄全く知らない人から声をかけられることがあるんだけど困るんだなぁーこれがっ、それも相手次第なんだけど。先日も山手線の中で、僕のバッグを後から引っぱる人がいるんで、ふり返えると(30代前半のサラリーマン風の男が)、“このバッグどこで買ったんですか? ○○とかいうメーカーの物ですよね。海外で買われたんですか? おいくらくらいですか?”もう、こっちが“はぁー? あんた何? 誰?”って思って何か喋ろうとしても矢つぎばやな質問を浴びせてくるんだよね。で、“実はこれはもらいものなんでちょっとわからないんだよね。”って答えたら、その目は胸にある携帯を見て、“プレゼントしてくれた人に電話して聞いてくれてもいいんじゃないの?”ってな目をしてんだよなぁー! つくづく困ったもんだ、丁重にお断りしたんだけど、かなり不満そうな顔してたよねー。

 まだあった! 携帯のストラップを見て“どこで買ったんですか?”って聞いたオバサンがいたなー(昨年の小泉ブームの時に貰った小泉首相のもの)。しかし、それよりも偶然知人と会ったりしても、いやな奴と会った時の対応が苦しいんだよね。話したくもない奴なのに、ドアが開いた瞬間にいたりして目が合っちゃったりしたらもう地獄なんだよね。“ありゃー”ってなもんだ。無視する訳にもいかないし、まして相手が“コンニチワごぶさたしてます”なんてニコニコしながら“どちらまで?”なんて聞かれてつい“どこそこまで”っていったら、“あっ僕も同じです”なーんてね。まだ七つも先だっちゅうのに。“隣の駅です”って言っときゃ良かったって思ってもあとの祭り。とか、逆に以前どこかで会っているんだけど思い出せなくて、知らん顔したらまずいかなと思い、こちらから“ドーも!”なんて言ったのに無視されちゃったりとかね。だから会いたくないのは、電車の中では知り合いと!!

 しかし、そんな中でもたまにハッとするような“女(ひと)”と出会う(只、見ているだけなんだけど)、こともあるよね。そういう時の幸せな気分というか、勝手に胸をドキドキさせている自分は一体、何者なんでしょう? しかし電車の中、雑踏の中ってのはこれだけ多くの人がいるのに、すごく孤独な感じがするのと、又逆に、妙な解放感を味わうことが出来るんだよね。不思議だなぁ。


第7回“「知りたいこと」”

2002.4

 携帯電話でのメールをやり出してから、そろそろ2年くらいになります。当初「メール?」「何じゃそりゃ~?」電話で直接話せば済むことなのに「何故わざわざ文字を打ち込んだりして面倒なことをやるんだ?」。丁度、始める半年程前、深夜に桑名正博くんから久々に電話があって、「しばらくだね~! 元気? よかったら今から一緒に飲まない?」との誘い。で、もう遅いからと、丁重にお断りしてたんですが、「じゃー今度メール頂戴ヨ、ヨロシク!!」えっ、あの桑名正博がメールやってんの? イメージ合わないヨなー。果して2年。これが仲々便利! 今現在まだ、やってない人に携帯のアドレスを聞いたりすると、僕がやってない時に言っていた事と同じ反応。「全然必要性を感じないし、大体面倒臭い!」いやいやそんなことは無い、仲々良いもんだよ、などとうるさい程、説明してきたんだけど、最近はもうやめました。「あっ、やってないんだ!」これで終わり。「やればー?」なんて言う方が面倒だからね。

 と、ここまで書いてきて何がどう便利か? などと書くことは止めにします。何故ならば、やっている人には「分かってるヨ、そんなこと。」やってない人には「だから何なのヨ。」ってな話しが関の山。携帯を持ってから丁度10年くらいになる。とはいうものの、前記の通り2年前からやっとメール。最近は増々色んな機能が付いてきているけど、はっきりいって全く使い切れてないし、実はメールやるだけでも、大変だったもんだからもうこれ以上は、マニュアルを読みたくない! ってのが本音。だからメールやりたくない人の気持ちも分かる。しかし、完全に使いこなせたら結構楽しめそうだよね。例えると英語が喋れたらもう少し世界観が変わるとか、車を運転(実は普通免許を持っていない! クーッ!!)出来たら、時間の使い方とか、行動範囲も変わるだろーなぁーとか、世間の見え方も変わるんだろなーとか、なんていうか「とか的」な気分というこ「とか」? 飛躍し過ぎか?

 10年ひと昔というけれど、もっともっと昔の話し、同級生T・Y君の作文「氷すべり」。

 “朝起きて、学校に行く時、田んぼで、氷の上にのってすべると、つるんとすべるので、しりもちをついてしまうので、うまくすべらなくてはならない。もし足をまちがいたら、田んぼの中に足がはいってしまいます。すべるたんびに氷がメキメキというので、おそがいような気がします。”(三河弁入ってるぅ~!!)

 40年も前の作品。子供心に、どんな事にも時と場合に応じて、慎重に当たらねばっていう心構えを持とうという気持ちが、伝わってきます。40年。最近とにかく時間の経つのが早い。幼い日々、あんなに長く感じた一年という時間が、何もかもが待ち遠しかったあの頃…。クリスマスが、お正月が、日曜日が、一週間が、そして1時限の授業さえもが、なんと長く感じたことか…。「待ち遠しい」っていうくらいで、「待つということは遠い」という意味付けをしたとすると。待つという気持ちが強ければ強い程、時間を長く感じてしまうのかも知れませんね。

 そういえば今でも、人との待合わせでなかなか来ないと、やたら時計を見たりするけど、少しも針が先に進んでない。あの感覚に似てるよね。とはいうものの、年を重ねると時間の感覚は早くなりますヨネ。このメカニズムはどこかで解明されているかも知れませんが、もし知っている人がいたら是非教えてもらいたいもんです。しかし、いくつになってもというか、年を経ると、今度は“知りたいこと”がどんどん増えるしその分、分からない事もどんどん増えていってしまうのは、どうしたもんだろうか?


第6回 捜索中!

2002.3


第5回“岡崎なこと”

2002.2

 2002年の年明けは、京都の新風館「TRANS-GENRE」でのカウントダウンライヴのステージで迎えました。今回のメンバーは、パーカッションに斎藤ノブ、ギターに古川望、そしてケーナを阿部次昭という、今迄にない、ちょっと変わった編成でのライヴでした。

 普段、リズム楽器なしでやっているんで、今回の斎藤ノブのパーカッションは、とても新鮮でしかも心地良く、気分も良く、それでいて楽に唄えたことが演奏する楽しさを倍増させてくれました。しかし、今回はいつもとちがうメンバーでもあったんで、多少の緊張感が、気持ちも引き締めてもくれたみたいなところも良かったね。

 実は、斎藤ノブとは30何年かぶりの共演でした。その前に一緒にやったのは僕が役者として東京キッドブラザースの舞台(というかライヴスペース)に出演していて、そのバックバンドの一員としてノブはパーカッションで参加していたんだよね。確か、僕が19才、ノブが18才の時だったと思う。随分と昔のことだから、実質今回が初めての共演といったところだろうね。

 で、その後、僕がディレクターをやっている頃、レコーディングの仕事で、ちょくちょく演奏してもらっていたんで、そんなに久しぶりって感じは無かったんだけど、いざ、一緒にやるって事になった時は、嬉しいような、不安なような。でも、リハーサルをやった時には、一瞬にしてそんな不安はふっ飛んだね。当り前だけど、彼はパーカッショニストとしては、日本では「超」のつく一流ミュージシャンなんだから…心配する方が変だよね。しかし、よくあるじゃない、良く知ってる友人なんかと何かやるって、得体の知れないこそばゆさってあるでしょ、あの感じだったのかもね。

 2001年12月31日は、18時と22時の2回のステージだったんだけど、2回目の方に盛り上がりは凄かったね。お客さんも、かなり酒が回っちゃってるみたいで、カウントダウン後のアンコールの後のアンコールなんて、全く練習もしていない、ビートルズのGET BACKなんかも演ってしまう始末で、おおいに盛り上がった楽しいライヴでしたが、実はひどい風邪をひいていて鼻水が止まらずに、なんとステージにティッシュペーパーを持ち込んでしまって、あげくに鼻をかんでしまいました。演奏の途中で! 京都の皆さん申し訳ありませんでした。

 そんなこんなの年末年始でしたが、実は、その一週間前には、大阪に続いて、故郷岡崎でのディナーライヴだったんですが、この時も、ティッシュ持参のステージをしてしまいました。しかも、この時は風邪のひき始めで、すごくノドが痛くて、体もだるく、最悪の状態だったんですが、ステージに上がる前に聞こえてくる、ザワザワとした中で飛び交う三河弁の岡崎な人達一杯の客席に、がぜん気力とパワーをもらって僕もすぐに岡崎な人に同化してしまい、何かこうなると、演奏していても、どういう訳か妙に楽な気分になってしまって、楽しくて楽しくてっちゅう(という)感じで、あっちゅう間(あっという間)に2時間が過ぎとった(ていた)のが、わっか~へんかっただもんね~(わからなかったんだよね)! ほやほだ(それはそうだ)、楽しい時はえっらい(すごく)、早すぎるでね~(からね)! ほいだで(だから)、疲れも感じ~へんかった(なかった)だよ~! ってな感じで、めでたくライヴ終了!!

 しかし、あんなに具合が悪かったっていうのに、そのあとで岡崎の中学時代の友人とか、東京からわざわざ来てくれた布袋寅泰君のオフィスの社長でもある糟谷君なんかと、カラオケに行って盛り上がってしまいました。それがたたってか、その夜ホテルのティッシュを、3箱も使っても足らなくなる程、風邪が悪化してしまい、これを書いている今も、治ってない始末です。3年振りにひいた風邪ですが、“今年の風邪はひつこいから気を付けなっ!”って言う人がいつの年もいるのは何故でしょう? 何で毎年、その年にひく風邪はひつこいんでしょうか? 知っている人がいたら教えて下さい。しかし、これが「岡崎なこと」なのかどうかは、僕は知らない。そして「岡崎なこと」はまだつづく。


第4回“思ってもいなかってってこと”

2002.1

 21世紀の始まりの年もいよいよ残り少なくなりましたが、20世紀最後の年だ、ミレニアムだと騒いでいたのが、昨年の今頃かと思いきや、もう二年も前の事だと気付きました。そんなに時間が過ぎたのか! 本当に、ここ何年かは特に時の経つのが、あまりに速くてつい最近の出来事だと思っていた事が、もう一ヶ月以上も前だと分かって、えーっ、そうだっけ? なんてチグハグな会話をしている自分に、あせったりする日も度々な今日この頃ですが、先日、同じ事務所の尾崎亜美さんの25周年コンサートの打ち上げで、久々に昔懐かしい仲間と会いました。

 元YMO、サディスティック・ミカ・バンドの高橋ユキヒロと小原礼(実はこの二人、GAROの結成時から2年間程、ずっとドラムとベースで参加してくれていたんです)。マァ、それと懐かしくはないんですが、某有名ミュージシャンやら某関取やらが集まるコンパクトだけど洒落た雰囲気の打ち上げの時のこと、元僕のディレクターでもあり杏里のプロデューサーでもあった常富喜雄さん(実は、あおい輝彦さんの“あなただけを”の作曲者でもある)と相席に。彼が“今日の亜美ちゃんのコンサート良かったねー。それにしても25年もやってるってスゴイネー。”なんて話しをしている中で、“そういえばあんたはもっと長いんじゃないの? GAROのデビューは1971年じゃなかったっけ?”あー、そうか今年で丸30年経ってたんだ。言われて初めて気付きましたねー。ここんとこ、再び活動しはじめて20年ぶりくらいで…ってな事は度々、喋ってたりしたんだけど、全くの新人のつもりでやってるし、そんな自分がこの業界に入って何年? なんて思ってもいなかったね。しかし、30年という現実に過ぎ去った時の長さと、それとは気付かない程、速く過ぎ去っていった時間に対する感覚のギャップに戸惑っている自分が、一瞬そこにいましたね。幼い頃は… 途方もなく長く感じた一年間を想うと、何か取り返しのつかないっていう切なさに、胸をしめつけられる思いでした。(この時間の感覚に関連した事をMAC奮闘記で、以前書きましたんで、そちらの方も、ぜひご覧下さい!)

 で、ワインを飲みながら“せっかくだから30周年で何かやったら?”なんて提案されまして、つらつらと考えたんですが、実際来年は31年目になるんだけど、まだ30周年の内だという事で、年明けの早い内に、祝・30周年記念“超”特別企画(実は今回の12月17日のライヴは年末特別企画という唄い文句だったので、次回は“超”をつけることに)のライブをやろうということで、色々なことを(内容は秘密)やってみようなどと、酒の勢いも借りて盛り上がってしまったという次第であります。2002年も大野はやりまっせー!!

 後日、早い夕暮れの電車の中、下校途中の女子高校生が、ほんの2~3年前に流行った曲の話しをしているのを小耳にはさみました“それって懐かしいよねーっ”“うんうん超懐かしいよねーっ! 今聞くと古いよねーっ”だってさ。僕にしてみれば、昨日、聴いたような気がしたんだけどねー…。


第3回“当たり前のこと”

2001.12

 実は今回“あのコト”にたいする続編ということで僕自身の何かしらの気持ちを書こうかと思っていたんですが、“あのコト”に対するあまりにも多くの記事の氾濫で、もう“あのコト”に関しては十分であるかな…と。ま、多分、これからも長くて遠い道程になりそうだし、且つ拡大し、果てしなく複雑さを増してゆくに違いない、この“あのコト”は今回は見送ることにしました。しばらくして、再びこの“あのコト”に触れることがあるかも知れませんが…。

 話はガラリと変わります。僕は都内ではありますが、かなりの郊外というか隣県に近い場所に住んでいます。夜になると電信柱にポツンポツンと街路灯はあるものの、かなり暗い場所の多い住宅街です。

 先夜、家の近所(坂道を上っていた)公園の脇を歩いていたんです。丁度、横断歩道のある曲がり角にさしかかった時、あやうく無燈火の自転車にはねられるところでした。身の軽い?僕は暗闇からの、かすかな何かシャーッという音に敏感に反応し、ヒラリと体をかわし、難をまぬがれる事が出来ました。

 実は、常々腹に据えかねていた問題ですが、自転車との衝突で年間で、かなりの数の死者、ケガ人が出ているという事です。本当に、どうなっているんでしょうか?この件は、暗い家の近所でも、明るい駅付近の市街地でも、夜、ライトを点燈している自転車は、ほとんどいない!田舎育ちの僕としては、暗くなったら点燈して走るのは、当たり前だと思っていたのに、どうなってんだ!しかも、先日なんて交番の前を無燈火二人乗りで走っているのに、警官、なーんにも言わないもんねー。もー勘弁してよ!

 ここでもうひとつ、頭に来ていたことを思い出した。TVのニュース番組の特集コーナーで、確かに放置自転車、無燈火の問題を取り上げたりはしているが、通行方向に関しては、一切見たことも、聞いたこともない!ヤレヨナー!子供の頃から、聞かされていたではないか。“人は右、車は左”だと。昔から、自転車は軽車両といって牛馬(古い!)、そり(古い!)、荷車(古い!)などと同じ扱いなの!だから自転車は左側を走らなきゃいけないのよ。なのに、どうだ!街中を走ってみりゃ、人とぶつかりそうなのがいたり、自転車同志のスレ違いなんかでも、こっちが左に寄れば、相手も同じ方向に向かって来たりするもんだから、仕方ないから、右へ行けば、又向こうも同じ方向に来たりするもんだから、もう、いやんなっちゃうよねー。いつも左側を走ることを、心掛けていれば、こんなことは起らない訳ヨ。なんだか、どこかで、このコトを大声で叫びたくなって来たァー!もう一回言いますヨ“人は右、車は左”そして“ありがとうと言われるように、言うように”なんですヨ。

 世の中、いろんな事が起っていますが、こういう身近な問題を考えることが人が人としての根本を育んでゆく事なんじゃないのかなー。これも又、日常の平凡なことでありたいよね。


第2回“平凡なこと”

2001.11

 この第二回目を書き始めた時に、とんでもない事件が起こってしまい、改めてこれを書き直している次第です。

 NHKで放送中のプロジェクトX(今回は姫路城の解体工事)は毎回、欠かさずに見るようにしている。いつも番組の後半は、もう、涙、涙で、出演されているゲストの方と共に、いつの間にか涙を流しているという始末です。今回は、泣くことはないだろうと、思いつつ見ているんだけど、毎回、見事に裏切られてしまう。普段はビデオに録画しておいて、見る事が多いんですが、今回はめずらしくオン・エアー時に見る事が出来た。

 また泣かされちまったなーと思いつつ、そのまま10時から始まる「ニュース10」を見ていた時、テロップで小型機が、ニューヨークの世界貿易センターに衝突、と出た。その直後、画面が切り替わり、ツインタワーの片方に穴が開いて、煙が上がっている。現地とNHKのアナウンサー堀尾正明のやりとりが始まって、間もなくもう一方のタワーに飛行機が激突した。瞬間にテロだ! と思った。しかし現地のレポーターは全くそのことが理解出来てない。はるか日本に送られて来ている画面を見ている僕は、堀尾正明とのやりとりが、チグハグになっているのがもどかしい。言いようのない不安が僕を襲って来た。

 と、突然“平凡なこと”のイントロが頭の中で鳴り始めた!!

しばらくして、やっと事の重大さを伝え始めた。只事じゃない! 物凄い事が起こった! 僕の心臓はどうにもならない程、高鳴って、画面を見ていてどんどん落ち着かなくなって、自分は今、どうしたらいいのか何をすべきか? とにかく、この現実を誰かに“伝えなくては”という妙な使命感が湧き起って来たのは何故だろう? この番組を見ている人は、きっと何百何千万人もいるんだから、と思いつつも、酒を飲んでいる友人や、何をやっているのか分からないけど、誰かに今、起こっているこの事を、このあまりに悲しい現実を、どう思うのか? どうなるのか? を、聞きたくて、知りたくて、もうどうにも止まらない。電話をし、メールをし結局どんどん拡大しひどくなってゆく状況を見守っていたら、興奮が収まらず、眠ることも出来ず、朝を迎え、昼も過ぎて、やっとウツラウツラという状況になってしまいつつも、この原稿を“書くこと”に専念していたんだけど、ここでふと気が付いた。原稿の締切りまでには、もう少し時間があることに……。

 しかし“このままでいいのか”の部分がリピートして鳴りやまない!

 このままでは終われそうもない。

 “このこと”は、次回へ!!


第1回“連載すること”の御挨拶

2001.10

  REVERSIBLEをごらんの皆様、たった今からというか今月から、連載を開始することになりました、大野真澄です。約20年間という長い冬眠から目覚め、“歌うこと”という活動を再開致しました。

 という訳ですから、もう、ほとんど新人と言ってもさしつかえない程、表舞台から遠ざかっていました。かなりの年輩の方でない限り、僕のことを知っている方は、いないことでしょう。この際、デビューしたこの新人歌手大野真澄、ということでいかがでしょうか?

ですから今後、このページでの言葉使い、失言、無礼などがあったとしても(多分あると思いますが)、新人ということで、我慢というか、勘弁して頂きたいと、思いますので宜しくお願い致します!

 しかしとりあえず、長い間、この業界で裏方をやっていた訳なんで色んなことがありましたねぇー。そこのところの“こと”は、おいおい書いてゆくことにしましょう。(もう、新人ぽくない!)

 で、本題ですが、これからこの“連載すること”の連載に関して、どういった事を書いてゆこうかと頭をひねっていたわけですが、ふと、僕の友人の役者さん(中西良太、河西健司)が数年前から「~こと」、というタイトルの芝居を続けていましてねぇ~。「悪いこと」、「赦されること」、「妙なこと」、「賭けること」などのタイトルで上演を続けているんです。(毎回、かなり面白くて、実をいうと、必ず複数回観に行ってしまうのです。)

 何で、こんなことを書いているのかといえば、偶然だったんですが、昨年末久々に出したアルバムのタイトルが“平凡なこと”ということで、“こと”という言葉が入っていたんです。で、連載を開始するにあたって、タイトルをつらつらと考えていたんですが、はたと、この“こと”という二文字には、なかなか深い意味を込めていけるんじゃないか? との思いに至った訳であります。 という訳で、今回の第一回目は、“連載すること”という“こと”のことと次第を書いてみました。

 なお冒頭にも書きましたが、この連載は我が故郷愛知県の岡崎市で毎月発行されているタウン誌REVERSIBLE(リバーシブル)に連載されています。岡崎の皆様宜しくお願い致します。WEBサイトのREVERSIBLE(リバーシブル)をごらんになっている方、共々お楽しみ頂ければ幸いです。ということで、次回はどんな“こと”になるのか…!?