マック奮闘記

第14回“存在感”

1998年11月

 先日の新聞記事によると、サザン・オールスターズが結成20周年だという。彼等がデビューしたのは1978年で、その頃の僕はといえばフォーライフ・レコードからのラストシングルがリリースされ、同時に僕自身もソロとしての演奏活動を止めた頃でもあった。

 話しは、それから遡ること約1年くらい前の事なんだけど、たまたま所属していた事務所に行ったときの事、担当のマネージヤーから新人のデモテープがあるんだけど、ちょっと開いてくれない?って言われて聞かされたのが彼等だった。オリジナル楽曲はなく、すべて外国曲のカヴァーでアメリカのサザンロックという感じのものばかりで、別に新鮮味もなく、こういうものだったら当時はいくらでもあったし面白いとも思わなかった。ただ、グループ名が凄いよねって、マネージャーと二人で笑っていたのを思い出す。

 そして、その1年後、僕もニューシングルを出したことに伴い、ラジオ出演とか有線まわりなど、していたんだけど、そんな折、なんだかえらく言葉数の多い、あの吉田拓郎さえも真っ青になるくらいの早口で歌ってる、とんでもなくインパクトのある曲が耳に飛び込んできた。誰なんだ?こんな曲をやってる奴ってのは!!サザン・オールスターズだっていうじやない、 エーッってなもんよ。

 グループ名だけは1年たっても覚えていたから凄く驚いたし、それよりも1年前のイメージとは似ても似つかないサウンドで本当に、あの時に聞いたデモテープのグループなんだろうかと、首をかしげてしまった。もしも、あの時、1年前にこの曲(勝手にシンドバット)を聴いていたら、どうだったんだろう一(別にどうにも、なりはしなかっただろうが・・・)なんて思ったもんです。

 しかし、1年の間に、これほどイメージが変わってしまうものなんだろうか?それとも元々こういうオリジナル楽曲をもっていたのにプロデューサーの考えていた方向と合わなくてメンバーとの葛藤があって互いに思考錯誤を繰り返していたんだろうか?などなど色々と考えてしまった。というのも、当時すでに裏方としてディレクターの仕事を始めていたこともあって彼等を見い出してデビューまで持っていった人達の苦労と努力は大変だったに違いないなんて、自分達のやってきた過去を思いながら、ついしみじみしてしまった、というわけです。

 そして20年、いまや押も押されぬスーパーグループになってしまったが、実は途中で桑田佳祐のソロ活動があった頃、彼のソロアルバムを聴いた時、“あっ、これでサザンも解散するな”って思ったんだけど、逆に他のメンバーにも又、桑田自身にも、いろんな意味で刺激になったんだろうか、しばらく活動休止した後に再結成されたわけだが、何とそれ以降の活躍の方が一段と、凄いものになってしまったんだから、もう何をか言わんやである。

 それとヒットを連発する桑田佳祐の作品力には、脱帽してしまう。とにかく20年もの間チャートを賑わせ続けているなんて本当に並大抵ののことではない。新聞記事中の彼、いわく“歌は口ずさめなきゃ、チャートにもこだわらなきゃ”と、こういうこだわりは僕も大好きだしポップスの本質でもあると思う。

 ま、こりゃ一パクリだなとか、中にはここまでやっちまっていいのか?って曲もあるけど、そんなことなんて、どうでもいいやと思わせてしまう程、しっかり自分達のものというかサウンドにしてしまっているし、なによりも媚びている感じがしないのがいい。何たって桑田佳祐のあのオリジナリティあふれる歌唱は、誰にも真似のできないキャラクターでもある。さらに付け加えると時代背景をしっかりと、捕えながらもその時代を越えてしまうような、普遍的な歌詞も彼等の魅力を倍増させている。そして、その存在は今や知らぬ人は誰もいない。

 ところで大物というか誰もが認める存在になっているロック、ポップス系のアーティストってどれくらい、いるんだろう。演歌系の歌手なんかだと、デビュー直後の数年の間に数曲のヒットが、あれば大物歌手といわれるようになって、その後の歌手活動も華やかな未来が・・・っていうイメージが過去にはあったし現在も、そうした大物歌手達は厳然とした存在感を持って(レコードいやCDセールス的にはそんなに多くなくても)活動を続けていられる。しかしロック、ポップス系となると、なかなかそうはいかない。やはり長年ヒットチャートに作品を送り続けないと活動の場は以外と早く消滅してしまう。ま、こういうアーティストってのはライブ、コンサートが中心で、いわゆる営業という仕事をほとんどやらないと、いうこともあるが・・・。

   そんななかでも、時の流れとでもいうべきか、確実に世代交代が起っているのは否めない。今、ブレイクしている若いアーティスト達のCDの売り上げ枚数の多さには、本当に驚かされる。が、そんな流れのきっかけをつくったのは実は70年代にデビューをした、いわゆるニューミュージクというジャンルでよばれ出したアーティスト達(わざわざアーティス名を出す必要もないだろう)だった。どういう訳か、ここんところこの二ューミュージックという言葉をとんと聞かなくなった。が、この時期のアーティスト達の現在までの頑張りが、日本のミュージック・シーンというかショウビジネス全体をも新しい形態、流れに、変えて行ったのかもしれない。そんな中にあっても、彼等、サザンオール・スターズの存在は今後も益々重要なものになってゆくに違いない。

次号へつづく


第13回“番外編「ロックってなに?」”

1998年11月

 前回に引き続きロックをテーマに!!“ROCK”これって勿論、音楽におけるフォーマットのひとつではあるけどそれだけじゃなく、ここではそれ以外のそのアーティストの持っている思考とか価値感とか、要するに生き方のスタイルなんじゃないかなどと思ったわけです。じゃロック的な生き方ってどういうのかということになるんで、ちょっと考えてみたいと思います。

 ちょっと時代をさかのぼってアーティストをあげながら、その足跡なんか思い出しながらということにしよう。勿論、これは僕個人が感じてきた音楽史に基づいてのものです。

 まずは“エルビス・プレスリー”。彼の場合、超人気者になってそしてスキャンダラスな死に方をしてしまった。そのちょっと前から活躍してた人でロックンロールの神様的存在の“チャック・ベリー”。この人は今だに健在だけれど彼も結構すごい!何せあのロ一リング・ストーンズのキース・リチヤーズが共演し演奏した時の映画でのこと。キースがギターの弾き方について彼から文句をつけられた時のこと、緊張して顔がひきつってしどろもどろになっちまっていた。このチャック・ベリーという人は今でも世界中をエレキ・ギター1本でスタスタ出かけていって、現地のミュージシャンとのセッションだけの演奏スタイル。でその態度たるや“世界中で俺の音楽、知らねえ奴はいない”といわんばかり。この自信はエライッ!

 70年代のはじめ、ジミ・ヘンドリックスとかジヤニス・ジョプリン。彼らはどうやら薬まみれで死んでしまったらしい。何に追いつめられ何を求めてどこへ行こうとしたのか?孤独だったんだろうか?何かにすがりつきたかったのか?行きつく所が薬・・・。悩んだあげくの末・・・ということか。そういえばさっきのストーンズのキースも薬漬けになって、体中の血を全部とっかえたという話もあるし、エリック・クラプトンも一時廃人のようになってた時期もある。それと“ドアーズ”のジム・モリソンのように、自殺か他殺か果ては死体さえ誰も見ていないという謎の死である。生前ライブで“モノ”を見せてしまったり、途中でやめちゃったりもうやりたい放題の人だった。まだまだ名前を上げるときりがないんだけど、行きつくところやっばリジョン・レノンということになってしまう。今や世界最高のカリスマ的存在になってしまった人。

 彼らに共通しているのは、ちょっと不良っぽくて芸術家肌で勝手で調子よくて負けず嫌い、そしてどういう訳か弁が立つ。ストレートに物を言われると妙に納得させられてしまう。説得力がある。それなのに素直。ジョン・レノンの場合、愛とか平和とかをとなえ、デモに参加したりもした、が、その一方では女に酒に溺れ、ケンカ三昧の日々もあった。そんな中で息子が生まれると突然“主夫”になると言い出し5年間も音楽活動を休止してしまった・・・。その間とにかく色んな報道があった訳だけど、僕自身も一体どうなってしまったんだ彼は?などなど思い巡らせていたもんです。で、1980年になるとオノ・ヨーコと共にもの凄い作品(ダブル・ファンタジー)を発表し、完全復活で周囲を完全にねじ伏せてしまった。やる時にゃ~やる。これぞロックということか・・・。そんな最高の瞬間を迎えた時にあっけなく撃ち殺されてしまった。なんという運命のいたずらか・・・。世界中の音楽ファンというか世界の人々が驚き悲しんだ事件だった。僕自身も生き方の指針というか価値観も含め影響を受けた部分も多かったんで、一時はボー然とした日々を送っていたことを思い出す。

 ちょっと横道に逸れてしまって申し訳ない!で、アーテイスト全体的に言えることだと思うけど、ようするに感性、感受性が強く、傷つき易くもろく、協調性がないくせに自分を主張する。わがままだけど、妙にやさしかったりしたかと思うと、突然何かにのめり込んで出てこれなくなってしまう。なんだか僕の知っている日本のアーティストにもこんな感じの人って結構いるような気もするなぁ~。

  前出の外国のアーティストなんか破滅型というか性格破綻者というか、そういう人がオンパレードになってしまったけどやっぱちょっと不良っていうイメージのある人かなぁ、それなのに―本筋がきちんと通ってる人というか、ちゃんと通せる人。ちょっと理屈に合わないかも知れないけど・・・。まっ簡単に言うと自分の意志を持って自分らしく生きて自己の追求も忘れず、強く生きたいと願うがその分悩みも多い・・・。ということか?が、こういうのって誰の中にもあることだよな。結論だけを取り上げるとこれがロックな生き方だというわけにはいかないような、あたりまえのような・・・。

なんか“ロックって何?”から話しはそれてしまったようだが、悩みつつ次号へ。


第12回“日本のミュージックシーンのジャンルとは?”

1998年8月

 すっかり夏である。前回中断したのが2月のこと確かオリンピックが終わった頃だったと思うが、その間にサッカーワールドカップも終わって、もうすでに8月になってしまった。やっと梅雨明け宣言が出た今日この頃、そういえばここんところ数年、異常気象が続いている。今年も確か6月の始めの梅雨入りが、ずいぶん早いなあ~と思っていたのに、やたら長い梅雨だった。やはり何かおかしい。しかし5ヶ月間も中断していたというのになんと時の速いことか・・・。

 ところで5月~6月の約1ヶ月の間にライブが4本程続いたんですが、その中でも特に印象に残ったのが、6月一杯で閉館してしまってとても残念に思っているんですが、あの新宿のライブハウス「パワーステーション」で行われた、泉谷しげる主催の“真夜中の雰囲気一発”というコンサートにゲストとして呼ばれたライブ。30分程のステージだったんですが、泉谷氏の人間性というか持ち味というか、そういうものを十分熱知している暖かい泉谷氏のファンの前でのステージはとても心地よく出来ました。それというのも、少々緊張気味の僕を絶妙のトークで紹介してくれてお客さんを盛り上げてくれた、彼のおかげだと本当に感謝しています。ありがとう!久々の泉谷しげる(敬称略)との共演であったけど、その昔はよく同じステージに立ったものです。

 で、話しは変りますが、当時僕らはGAROという3人組みのグループをやっていたんですが、5人で演奏することも度々あって、前半をアコースティックギター、後半はベースギター(小原礼)とドラムス(高橋幸宏)を加え、僕らもエレクトリックギターに持ち代えて演奏していました。アメリカで当時人気のあったロックグループ、CSN&Yのスタイルを真似てステージをやってたんでジャンル的にはロックなんだけど、そういうことにはこだわらずにより良い音楽作りを目ざしていたわけです。

 が、よく考えてみると当時の日本の音楽シーンにはロックというジヤンルはちゃんとした存在にはなっていなかったように思う。が、俺達ロックだぜっていうグループが、沢山あったのは事実であげてみれば、フラワートラベリングバンド、村八分、ブラインドバード、エム、ファーラウト、フードブレイン、エイプリルフールなどなど数限りなくあるしロックフェスティバルも多数開催されていて、僕等も数多く出演したのを思い出す。しかし乍らフォークというジャンルの台頭のせいで、ロックは一時どこかへ押し流されてしまったように思える。そんな時期に僕らのグループにも数々の音楽雑誌の取材があってインタビューで様々なことを喋ってたのだが、その記事が載った時に、僕らは戸惑ってしまった。ある雑誌ではフォークグループ、別の雑誌ではフォークロックとかという呼び名で紹介されたせいである。これを書いたライター(当時は音楽評論家と呼ばれていた)か、その雑誌の記者?は一体どういう感覚してんだ?なんて怒っていたのを思い出す。

 当時は、はっきり言ってフォークという言葉がついているだけで嫌だった。しかしながら思い返せば、結局収まりいい場所というかジャンルとなる、時代を考えると周囲の状況とフォークだフォークだという時流の中に入れるとなると、僕らの場合たまたまアコースティックギターを使っての、ステージ活動も多かったしね。それに当時は髪を長くしてアコースティックギターを持って唄ってる人達なら誰でもフォーク歌手で、フォーク何とかなどと題されたコンサートに出演してしまった日にゃ全部、皆フォークということになってしまうご時世だったから仕方ないといえばそうなんだが・・・。その後キャロルとかファニーカンパニーあたりが出てきた頃からROCKというよりROCK'N ROLLという言い方でちゃんとクローズアップされるようになった。で、矢沢永吉が成功したあたりになってやっとROCKという言葉が定着しだしたような気がする。僕らも70年代初頭にはROCKという場所にはいたはずなんだが・・・。しかし面白いのは、その後何年か経って便利な言葉が出来たもんだ。それが、ニューミュージック。何がニューだったのか今もってよく分からないが、何となくニューミュージックという言葉が新鮮だったんだろ一な一。

 はなしをROCKに戻すと、60年代の終わり頃グループサウンズが流行したあたりにもROCKという言葉が定着するはずだったと思うのだが、そうはならなかった。ROCKというのは洋楽にのみ通用するもので、日本でエレクトリックギターを使って演奏していた人達(アーティストなどとは呼ばれていなかった)などは、いくら“ROCK'N ROLL”とか叫んでもほとんど認知してもらえなかった。要するに、グループサウンズであってROCKではなかつた。グループサウンズというジヤンルでしかなかったというか、ROCKというジャンルが生まれてなかったんだから・・・。しかしそんな連中のほとんどは“俺達ロックだぜ”という人達ばかりだったと思うけどね。が、今考えてみると矛盾するようだけど、自分にとってはそういうジヤンルはどうでもよかったように思える。好きな曲は他のジャンルでも沢山あったし実際グループサウンズの中にも大好きな曲、いっぱいあるしね。実は高校時代ハコバンドをやってたんだけど、そこでもかなり多くのグループサウンズの曲、演奏してたもんな。ハッキリ言って、やると受けたしね。またそれが気持ちいいんだよな。

 こう書いてると最初の方のフォークというジャンルうんぬんというのはどうでもいいことのようになってしまうけど、そうはいかない。実は僕らのやってたGAROというグループは音楽雑誌なんかでたまにとり上げられる日本のニューミュージックシーンとかフォークシーンとかいう年表の歴史の中には、ほとんど入っていなくて、、かといって歌謡シーンの中にも入ってない、早い話し存在がない?ヒット曲はあるけど存在がない?ずい分長い間そんな状態が続いていたんだけど、ここんとこにきてやっと僕らの音楽を見直してくれるというか認めてくれる若い人達が出て来てなんとなくホッとしてたら、その僕らのやってた音楽を“ソフトロック”とか呼ぷらしい。誰がつけたのか知らないけど、ふ~んって感じ?(若い?)、で自分達のやってたものを聴き返してみえるとやっばり“ふ~ん”て感じ。これが“ソフトロロック”なんだなんて、感心しているというか理解しようとしている自分がいるんだが、やっぱりよく分からない。が、感じはね、感じはなんとなくわかるんだよね・・・。

ということで、次号へ。


第11回“まず「生」だろう”

1998年3月

 開幕まで全く興味がわかなかった長野オリンピックが終わった。だからというわけではないが、ライブというか生中継で見たのは団体のジャンプのみで、あとは繰り返し流されるVTRの結果だけを見ていた今回の冬期オリンピックであった。

 実はここんところ、TVでのスポーツ番組の中継などにあんまり関心がなく、あんなに好きだったプロ野球中継ですら巨人の低迷のせいもあって、腰を落ち着けてのTV観戦もすっかりなくなってしまっている昨今でありまして、当然のことながら今回のオリンピックにしても興味をそそられることなく「あ~オリンピック始まったんだ。」程度だったりしたわけです。

 しかしスピードスケートの清水選手とモーグルの里谷選手が金メダルを取ってからは不思議なことになんとなく気になり始めてしまって、特に清水選手のメダル、あの母へのメダルのやりとりのシーンには参ったなあ。ああいうものを見せられてしまうと、どうしても目頭が熱くなってしまう。それに重ねて彼自身の生い立ちなんかも紹介されたりしちゃったりすると、もう因った状態になってしまった。それとあの快晴の空の下で行われたモーグルの時の画像は美しかった。その時に流されたスロ一モーションでの、里谷選手のジャンプシーン。はっきり言ってモーグルなんて、全然知らなかったし、予備知識も全然無かったわけだが、これには見入ってしまった。で、里谷選手の顔を繰り返し見ているうちにどんどん美しく見えてくるから不思議だ。いつの間にか慣らされてしまっていたのだろうか?

 まあキッカケになったのは、このふたつの競技からなんだけど、かといってその他の競技を見たかというと実はそうでもなくて、ふと気付いてみると繰り返し繰り返し、TVでオンエアされるものに対して興味がつのってきて、なおかつそこに至るメダルを取るまでの苦労話とかSTORYなんかを付け加えられたりすると知らないうちに感情移入してしまっている。いつのまにか感動させられている自分に気付くんだがもう遅い。いつのまにか洗脳?されてしまっているのだ。これってよく考えると恐いですね。

 が、音楽業界では随分前からすでに当たり前のことで、ここんところのヒット曲なんてほとんどのものがCMとのタイアップが付いている。くり返し大量に流されることによって耳になじませてしまうわけだ。またドラマなんかでは、オープニングやエンディングでテーマで使われる。そしてその番組自体が話題になることにより、やっぱり楽曲を耳になじませてしまうし、もっとすごいのはドラマ内のストーリーの印象的なシーンで意図的に流すことで自然に耳にしのばせてしまうことも珍しくない。感動というか心が動くという意味で、メカニズムは同じことなんだろうけど、人の感情っていうのは物凄く複雑で分かりにくいと思っていたんだが逆に凄く単純な部分が混同されているとしか思えない。なぜこうも簡単に心が動かされてしまうのだろうか?

 話しは戻るけど、なんといってもスポーツの本当の醍醐味っていうのは“生”というか、その現場でリアルタイムに体現することが一番だろうな。その場の音や空気感、汗や歓声等の迫力はその“場”での“生”でしか感じとれないことの方がはるかに多いだろう。いや圧倒的に多いはずである。そのイベントの規模や状況に応じて、様々なメディアが加わってきて実際に体験できない“生”を別の場所で観戦できたり、またそのメディアが繰り返し繰り返し“オンエア”や“掲載”を重ねることにより、より多くの人や何度も体験?できる機会が増えたりして、またその繰り返されるオンエア上や紙面上の“生”に、様々なストーリーを付け加えることにより、より多くの人の脳裏に深く刻まれていくことになる。

 僕自身の活動の再開も、川崎クラブチッタの“生(ライブ)”から始まり、昨年から始まったこのページで以前の僕からは想像もできなかった“インターネット”というメディアを通して、今月からはMACでのデジタルレコーディングで完成したオリジナル楽曲を、みなさんに聞いてもらえるようになりました。声とギターという“生音”をコンピューターというデジタルな器材で録音し、それをインターネットという僕自身未経験であったこれまたデジタルなメディアを通して“繰り返し”聞いてもらえるようになりました。しかしこの“繰り返し”には、アクセスしてくださる方々の意志が必要です。是非とも意志をもってアクセスして聴いていただきたいと思います。

 またこれからもデジタル器材を使ってアコースティックなサウンドとデジタルとの融合をよリー層研究していきたいと思いを新たにしています。このページでよりよい音楽を今後も届けられればと思っています。で、今回完成した曲のタイトルは「パーティーはそのままに」です。それでは、ぜひお聴きください(ウィンドウを開くと自動で再生されます。曲を聴くためにはShockwave Plug-inが必要です)。

次号へつづく。


第10回“いよいよレコーディング終了”

1998年2月

 年も明けて早や1ヶ月、とうとう2月になってしまいました。どういう訳か今年はこの時期になっても新年会というのがひとつもなく(不況のせいか?)、代りに結婚式がふたつも入るという年明け早々めでたい事続きで、またそれはそれであわただしく過ぎ去る日々のひとコマとしては、ある意味でインパクトのある出来事でもありました。

 というのも、その披露宴で唄って欲しいとの依頼があリー曲唄うだけなのになんだか食事の間も自分が指名されるまでずっ一と緊張が続いてしまう。コンサートとかライブで唄うこととは違う別のものがある。スピーチだけを依頼されても、何か違う“あの感じ”ですね。とにかくほとんどが見ず知らずの親族とかいて、ある程度はきちんとした表現をしなくてはなどなど考えて胸のドキドキが収まらないというあの感じです。

 しかし緊張するって事は一体どこから“やってくる”んでしょう?自分を誇示しようとしたり、良く見せようとしたりと思うことで、普段の自分の持ってる力以上の何かを他人に見せようとするからか?それって一体なんなんだろう。この問題については、かなりむづかしい問題だと思うので、書き始めてしまったものの答えはそうそう簡単には出て来ないし、別の機会にもっと掘り下げてみようかと思うけど、誰か分かる人がいたらヒントを下さい。

 まあそんな事を年頭にあたって思い巡らせていたある日、1月の中旬東京では2年ぶりの大雪の降った頃に、いよいよレコーディングは行われました。今回は、あらかじめアレンジャーの天野氏が作ってくれていたバッキングトラックにボーカルとコーラスそしてアコースティックギターを、サウンドワークスという16チヤンネルのマルチトラックレコーダーのソフトを使って、このホームページを創って下さっているムーンファクトリーの梅沢氏にお手伝いをお願いしてのレコーディングということになりました。当初パワーブック3400を使ってのレコーディングという事でしたが、機材の都合上(勿論3400でも同じように録音できるわけですが)、普通のデスクトップ型のMACをマルチトラックコンソールにつないで行われました。

 はじめにあらかじめある程度ミックスダウンされたCDに焼きつけられたバッキングトラックを、MACに取り込む作業から始まりました。いわゆる“流し込み”というやつです。これで2つのトラックを使い残りの14トラックでボーカルとギターのダビングをしました。そしてまずはボーカルのダビングです。試しに一度サラッと唄いプレイバックを聞いてみて、一応にスタッフが驚いたのは当初思っていた以上のクオリティで音が再生され、いい意味でホットした状態でいよいよ本番のレコーディングです。

 何本かのトラックに何回か唄い、良い部分だけをつなぎ合わせて完成品をつくろうと思ったんですが、毎回唄い方が少しづつ違ったり、一番の問題はレベルが合わないということで、ここにこのソフトの問題があるのか、いやいや録音の仕方が慣れてないせいで良くないのか、などなど話し合いながら進めていきました。

 結局唄ダビングはつなぎなしで1本のトラックにまとめました。確かパンチイン、パンチアウトもしましたが、ここでもレベルの合わせ方をうまくしないと、デコボコになってしまうという問題は残りました。が、なんとか唄とコーラスは完成。余談になりますが、その昔のレコーディングというのは基本的には全ての音を途中で止めずに―気に演奏して録音していたわけです。それもテープレコーダーのトラックが少なく、ボーカルダビングなどはせいぜい2トラックしかない時代だったから当然なんですが・・・。

 最近というかトラックの数が増えるようになってからは、何度も唄ってみて、その中で良い部分だけを拾ってつなぎ合わせてなおかつ修正するために、パンチイン、パンチアウトをして完成させていくのが普通になっています。それなのにトラック数が24くらいになってからでも、あの“美空ひばり”さんの場合、昔のままのスタイルでバックのオーケストラから本人の唄まですべて同時に録音していたということです。レコーディングの際は美空ひばり本人が完壁なんで、バックのミュージシャンがミスをしないようにと緊張のあまりあがりまくって(冒頭で書いた“あの感じ”でしょうか?)、大変なレコーディングだったという伝説もあるくらいです。

 が、時代が変われば方法も変わるということは当然といえば当然ですが、ちよっと前までのプロ仕様のレコーディングとほぼ同じクオリティーのものが現在では家庭でも出来るというのは驚きです。この“サウンドワークス”というソフトは初歩的なのもので、“キューベース”というソフトを使えばもっと上級のレコーディングも可能になるということです。

 とりあえず今回は9つのトラックを使いダビングをしましたが、時間的な都合もありミックスダウンはこれからやるということで、来月のこのページでいよいよお聴かせできることとなるでしょう。どうかお楽しみに。

次号へつづく。


第9回“優先順位”

1998年1月

 年明け1月になったというのに相変わらずの天候異変のせいかなかなか寒くならない(1月5日現在)。幼い頃のこの時期というのは、本当に寒かった。身も引きしまり(只寒かっただけなのだが)空気も乾燥し、多分栄養状態が悪い時代だったせいもあり、手足にしもやけあかぎれができて腫れあがって、脂気もなくなリガサガサで痛くてたまらなかったのを思い出す。で、そろそろ正月気分も抜かねばなどと思いつつこれを書いているわけです。

 昨年中に入稿しなくてはいけなかったのですが、なんやかんや年の瀬というのはやることが多いでしょう・・・。などと言い訳をしつつ年を越してしまいました。で、ふと思ったんですが、最近色々な物事について一度に出来る事の量が、どんどん少なくなっている事に気づいた。同時にいろんなことをしたりするのが、おっくうになってきてイライラすることが多い。それなのにここんところやりたいこととか、やらなければならない事がドンドン増えつづけているから始末に負えない。

 その中のひとつがこのMACを使ってレコーディングという訳である。なのに一向に進歩のない自分がふがいなくもあり、その上この状況を文章にしなくてはいけないというダブルのプレッシャーで年明け早々憂鬱な気分がつのりストレスになっているんだと思い込んでいる自分にまたまたストレスをためているという悪循環。やっぱり物事ってのは優先順位をつけて少しづつケリをつけていかないと、先には進まないんだという事にも気づいているんだが、突発的な出来事に対応していると、そちらに気持ちが行ってしまうもんだから、やらなければならない方向がわかっているにもかかわらず、ついつい散漫になってしまう。

 とはいえ人間今現在、たった今必要なんだという問題に対応せざるを得なくなってしまう。よく追いつめられないとなかなか事を起こせないなんて言うけど。これなんか典型的で結局ギリギリのところに持っていって必然的に優先順位を上げることによって解決させる。解決させなくてはいけない。しかしふと考える、今の自分の優先順位のパラバラさは一体どういう事なんだ?あれしたい、これしたいなんてのは只の思い込みで実はどうでもいいことなのか?いやそういうことではないだろう。これではあまりに未来がなく夢がないヨナー。

 とはいえ最近何かに“ハマる”って事が少ない。集中力がおとろえているのと無関係ではないだろう。というか集中力がなくなっているから“ハマ”らなくなってしまうんだろうか?しかしこれではあまりに寂しい。結局“気の持ちよう”か?“人間は心の動物だ”という親しい友人の言葉が胸をしめつける。果たして今の自分の心は本当はどこに行こうとしているのか?年明けの日本の現状を憂いながら(オーバーか?)一年の計を立てなくてはいけない時期にふと、こんなことを考えてしまった。困ったもんだ・・・。

 果たしてレコーディングの方は、12月の中旬に2曲のバッキングトラックはほぼ出来上がって歌詞も出来ている。多分1月中には完成に近い状態に出来ると思います。お楽しみに!

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第8回“レコーディングは延期です”

1997年12月

 この連載を始めてから、もうすでに半年も過ぎてしまったわけですが・・・時の経つのがなんと速いことか。ここのところしばらくぶりに、レコーディングスタジオに入りました。といってもパワーブック3400でのレコーディングをしていたわけではなくて、あるアーティストのプロデュースということで、その準備に3日間だけだったんだけど、久しぶりに新鮮な気分でスタジオワークをという気持ちだったんです。が、短期間であったために、一日で片付けなければいけない仕事が多くて・・・。昼過ぎにスタジオ入りして終わるのが深夜。当然家に戻って、只、眠るだけでまた、スタジオヘという繰り返しでしたから、あっという間に3日間は過ぎました。

 しかし疲れたなあ一っていうのが正直な気持ちです今回は。ず一とせまいスタジオに押し込められて、しかも中は煙草の煙りが充満している始末です。これがいけない。実は僕自身、煙草は吸わないが、飲み屋なんかで酒を呑んでいる時にはあまり気にならない煙りも、今回は他人の出す煙りが本当につらかった。目にしみる、臭いは付く、副流煙とかいう一番体に悪いものを目一杯吸い込んでいるという現実が余計に気分を減入らせてストレスの原因となってしまう。また昔は僕も平気で1日当たりセブンスターを3~4箱吸っていたんだから、随分勝手なことを、とも思うんだが・・・。

 けど、もうやめてからかれこれ17年も経っているんで、正直いって、今はタバコの煙りは嫌いなんだとハッキリ言ってしまいます。これはやめると、本当によく分かるから反論のある人は是非一度、試しにやめてみてください。

 ところでこんな話しを聞いたことがあります。人間の時間に対する感覚の話しです。通常一般の大人の歩行は、平均すると1時間に約4キロだということです。これを基に、人の年齢と時の過ぎ去る感覚を計算出来るというのです。年齢が1歳の時点での時速を4キロ、要するに1年当たり4キロ進むのではなくて、2年目からは→2歳になった時の計算は4キロ+4キロではなくて、4キロ×年齢(2歳)だから時速8キロ。当然3歳になると時速は12キロということになる。時の経つスピードの感覚がそういう感じのものらしいんです。つまり仮に30歳だとすると、時速120キロの感覚で日々を過ごしているという訳です。

 そういえば子供の頃、特に物心ついた小学生の頃の1年のなんと長かったことか。夏休みなんて途方もなく長かったし、2週間程度しかない冬休み、春休みでさえそんなに短く感じたことはなかった。お正月も夏休みも、いったいいつになったら来るんだっていう感じだった。それが今はどうだ!あっという間に1年が過ぎてしまっている。

 この頃よくある事なんだけど、「このあいださあ一。」なんて言ったりすると→「オイオイそりゃ一もう3年も前の事じゃないのか?」→「エーッ。」てな会詰が不当に多い。ちょっと前の事なんだけど、もう亡くなってしまった僕のおじいさんで、確か85歳くらいだったと思うけど、ふとしたことで大平洋戦争の話になった時、僕は「ずいぶん昔の事だからよく覚えてないんじゃないの?」って言ったら「いやいや戦争なんて、ついこの間のことで、このあたりだってほんの少し前まで焼け野原だったんだ。」なんていうんだから、もう50年近くも前の話しだというのにね。どういうメカニズムでそうなるのかは分からないけど、時間の感覚は年齢と共に確実に変わってしまうのは事実だと思う。年の瀬に、ふとこんなことを考えてしまったわけなんだけど。1年4キロX年齢というこの計算は、なんなく納得出来る話しだと思うことしきりです。そういえば最近は、20歳前後の人でも時間の経つのが速いと言いますもんね。僕らの年代なんかは当たり前でしょうね。ここんところの情報量の多さも関係してるんだろうか?

 というわけで、今だにパソコンがちゃんと使えてないのを時の経つのが速いからだなどと、理由にならない言い訳をするためにつらつらとここまで書いてしまいましたが、11月中に予定していたパワーブック3400によるレコーディングはスケジュールの都合上、延期せざるを得なくなりました。この分だと12月のレコーディングも微妙なところですが、楽曲もすでに2曲揃っているんで、早く仕上げて皆さんに聴いていただきたいのですが・・・。

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第7回“いよいよレコーディングヘ”

1997年11月

 1973年の10月の終わり、丁度24年前の今頃、僕は米国アラスカの水河に囲まれた寒空の下にいた。例年この時期になると、そこは白一色の風景になっているはずらしいんだけど、その年は暖冬で・・・。それでも日中の平均気温は0度くらいだった。晩秋の東京から何千キロも離れたところに突然来てしまったもんだから、ずい分寒いなあ一と感じると同時に周囲を見渡すと(この場合まさに見渡すという表現以外に言葉が見当たらない。)、地球の大きさというか、自然のすごさというかものすごい広大な、まさに大自然が圧倒的な迫力でせまって来る訳です。とにかく何もかもが大きい。なんか自分が、というか人間なんてとても小さな存在なんだということを感じざるを得ない場所だということを思い知らされて、やたらと感動したのを思い出しました。

 しかし、思えばあっという間に20数年が過ぎてしまってます。今回パソコンでのレコーディングということで、当時のレコーディングのことを思い出してみますと・・・、すべてが完全なアナログの時代で、当時僕は、GAROという3人組のコーラスを中心としたグループのメンバーだったんですが、最初のアルバムは10曲の録音で、確か8チャンネルでした。録音時間はトラックダウンまでトータルで60時間くらいだったと思います。同時期に「はっぴいえんど」というグループが85時間かけて録音したという話しを聞いて、とてもうらやましく思ったのを覚えています。今考えてみると不思議な程、短い時間でやったんだなあ一などと思いつつ振り返ってみると。・・・。

 僕らのグループは活動期間5年間で、8枚のオリジナルアルバムを発表したんだけど、2枚目から7枚目までは16チャンネル、ラストのアルバムだけは、24チャンネルでのレコーディングだったと思います。

 こうして書いているといろんな出来事が思い出されますが、少ないチャンネルと短い時間でやりくりしながらレコーディングしてたんだな一と・・。思えばその4~5年前、1967年のビートルズの有名なアルバム「サージェントペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」は4チャンネルのテープレコーダーを駆使してのものだということは、よく知られています。とにかく4人の「思いつき」を実現させるために、エンジニア達はとても大変で、そのためにマルチトラックレコーダーを開発せざるを得なかったといわれています。彼らの「わがまま」がなければ、多チヤンネルのテープレコーダーはこんなに早く実現されなかったという話しも聞いています。

 しかし、ステレオという言葉とその存在さえもその数年前のことで、ステレオを買うと付録として汽車が通過することが確認出来るレコードが付いていて、僕も聞いた事があるんだけど2つのスピーカーの右から左へ、左から右へと汽車がシュシュシュとただ移動するだけのものなんだけど、それを聞いてオッオッこれはスゴイものが出来たもんだなんて、驚いたもんです。それが今は、パワーブックとその周辺機器、そして数種のソフトがあれば、ほんの数年前のスタジオのコントロールルームがそのまんまパソコンの中に入ってしまったんだから、何をかいわんやです。すでに生楽器(歌も含めアコースティックギターなどなど)を除けば、自宅の机の上で、すごいクオリティーのものが出来上がってしまうわけで、今回のパワーブックレコーディングもそれを証明しようというわけです。

 ところで何故20数年前と現在を比較しているのかというと、実は今度の企画で当時録音した、僕らのある楽曲をリメイクしようということになったんです。で、ミーティングの中でその曲をどういう形でリメイクしたら良いか話し合ったわけです。で、当時その曲が出来た頃のことを色々思い出してみました。初めて聞いた時は、バロック音楽っぽい感じがしました。で、今回はその時のイメージ、プラス新たな感覚をということでアレンジをしてくださる天野正道氏と打合せをしつつ、骨組みを造りながらレコーディングをしようということになりました。

 僕に出来ることには限界があるんで、マックに大精通されている天野氏と共に創っていこうということになりました。勿論もう一曲のオリジナル楽曲も同時に出来上がりつつあります。

 次回のこのページでは、この時の録音の状況なども含め、お伝え出来ると思います。とにかく11月中での楽曲の完成をめざしてがんばります。

以下次号


第6回“あっデータが・・・”

1997年10月

 今年は大きな台風が多い。データによると週末から週明けに日本に上陸することが多いということで、9月の中旬の2つの台風もそうだった。そういえばその昔、伊勢台風が上陸したのが1959年の9月26日の土曜日だった。ものすごい強力な台風で名古屋市とその近郊が大洪水になり何千人もの人達が亡くなったという大災害をもたらしたものだった。実は僕も当時愛知県の岡崎市に住んでいて、小学校4年生の時で翌日の日曜日が秋の運動会ということだったんだけど、当然のことながら中止になった。

 翌朝はよく晴れ上がった空の下の家々を見ると無残な光景が広がっていた。ふだんよくお使いに行っていた大きな公設市場がつぶれてしまっていた。その裏にあった建設中のお寺の屋根が地面にくっついてしまっていた。僕の家も壊れはしなかったが、対面にある酒造屋さんの倉庫が倒壌してその建物の丸太(長さ5~6mで直径20cmくらいのもの)が、家の2階の屋根から天丼を突き抜けて刺さっていた。突風で舞い上がって20~30mもの距離を楽々と飛んで来たらしい。それにしても東京に住むようになってからは、台風もあまり来ないというせいもあって、あの時の恐怖心もだんだんと薄れてきてしまっているようだ。しかし今年も含めて近年の台風の大きな被害状況を見ると改めてコワイんだな~という感は拒めない。

 あの強風が息をするというか、なんとなく深呼吸をしているような不気味なものなんだけど、ピューとかヒューとかフゥーとかいう音と共に、その都度家が傾いているのが分かるくらいで、いつ吹き飛ばされてしまうのか、これは体験してみないとわからないと思うけど、ほんとにコワイ状況です。なおかつ道路からは家の仕事場の方へ水が流れ込んで来ている。それをオヤジや家にいる大人達がかき出し、それを同時に外のすごい豪雨の中で破損箇所をも修理しないと家の中に風が入ってきて、家はとばされてしまう寸前。もう家族もパニック状態、当然停電しているしローソクの灯りの中で恐怖にふるえていた。実はふだんは2階の方で寝ていたんだけど、雨もりがひどくて2階にいられなかったのが幸いした。朝になって2階部分に突き刺さった丸太を見て、ゾッとしたのを思い出す。

 しかし時の過ぎるのは速い今日(コンニチ)も色々な事件や出来事がくり返しくり返し起り、その都度メディアを通じて事が報道される。そしてあんなに大騒ぎをしたのに・・・と思われる事件がほんの少しの時と共に風化し、いつのまにか忘れさられてしまい世間はそのことについて何もなかったかのような顔でやり過ごし、又新しい事件が起るとその目新らしさに大騒ぎを始める・・・これのくり返し。実は本当に大切な事というか本質は置き去りにされたままになっていることが多いという話しもよく聞くこういう事実は一体どうなってしまうんだろう。単に忘れてしまったからでは済まないはずなのに・・・。

 こんな話を聞いたことがある。人間はすべての出来事が確実に克明に記憶されて忘れない状態になると、時間の感覚がわからなくなってしまうという。事の真偽は今はちょっと調べようがないが、どこかにこの資料があったらきちんと知りたいんだが。要するにすべての情報がすぐに取り出せる状態で、情報に関しての時間差を計ることが出来なくなるらしい。過去も現在も同じ場所にあるということなのか?コンピューターの平面上の画面と同じというよりも、点の中にすべての情報があるという事のような気もする。

 しかし人間は忘れることによってストレスを解消し、心を癒しそこで時間という距離を感じているのかもしれない。この話しも時間が経っているんで不確な部分もあるかもしれないし、一体何処で聞いたかも覚えていない。しかし、な~るほどと思ったもんだけど…。仮に物事を全て覚えているとするならば、日時の情報もあるはずで、それらを記憶しているんなら距離感はなくならないんじゃないだろうか?などなど考えてみたが結局結論が出せない。僕の頭では無理だということにしてはみたが、今でも気になっている問題なんだなこれが。マ、失恋を例にとるとあんなに胸が張り裂けそうな程思いつめてテンションを上げほとんど病気の状態が、突然終わってしまった時の苦しさも時が経つにつれ、事実よく昔の苦労話しをする人が、あの時はきつかったけどおもしろかったヨナーって言えるのも同じことか?

 で一、何故今回このようなことを書いているのかと言えば、実はパソコン・レコーディング用にと入力してもらったデータを僕の操作ミスで全てを消してしまったのです。マニュアルでトラブル時の項目を見てその手順通りにやったつもりなんだけど、アッという問に簡単に消えてしまったわけです。要するに人間に例えると、一瞬にして記憶がなくなってしまったわけで、はたと困った事になったもんだと、もんもんとしているうちにこんな文章になってしまったという訳です。

 で一、多分これからも何も変わることなどないと思うけど、それでもあえて書くとすると、自然と人との対話、国と国との対話、人と人との対話。結局コミュニケーションするということが、すごく大切な事で互いにより分かり合えばコミュニケーションはうまくゆくはずだという結論になったんだけど、これがそうそう簡単にはいかない。少々大げさな話しになってしまったんだけど僕も3400に対しての付き合い方が、間違っていたんじゃなかろうか。ちょっとないがしろにしてたかも知れない。もっと大切に、もっとやさしく時にはきびしい注文をしたりとかのやりとりや対応、対話が甘かったのかも知れません。もはやただの機械であるという領域を越えつつあるのが、これからのコンピューターとの付き合い方なのかも知れないなどと、たいして扱い方も覚えてもいないくせにそう思いつつ、反省しきりの今日この頃であります。

 いちからの出直しです。

・・・次号へつづく・・・


第5回“プロフェッショナルのためのMACINTOSHセミナー”

1997年9月

 8月ももう終りだというのに、これが残暑だといわんばかりに、まだまだ暑い日が続いている。だけど、僕の部屋のカーテンは、あまり開けられることはない。というのも、窓の外にはとなりのマンションの部屋が斜め上にあって、カーテンを開けるとその部屋の窓から、僕の部屋の中が丸見えになってしまう。不謹慎ではあるが、他人の見知らぬ人の窓の中を覗くってのは確かに好奇心をそそるし、なにか見てはいけない日常を盗み見しているという罪悪感が、となり合わせになって見たい衝動にかられるのは僕だけか?そんな思いもあって、なんか覗かれているんじゃないだろうか、なんていう被害者意識がカーテンを開けさせないでいるのかも。が、本当は暑くてもクーラーもあるし、窓もカーテンも開けなくても結構快適に過ごせるもんだから、実は只のズボラな人間だという事か?

 それでもたまには新鮮な空気を、と思い窓を開けようとカーテンを引いたりすると、毎日外出しているんだから近所の状況は分かっているはずなんだけど、いつの間にか窓の外の風景が変わっている。窓ワクからの見え方ってのは違うんだ、などと思いつつもいつの頃から、季節の変わり目を感じなくなってしまっている。なんとなく暑くなったなと思い、なんとなく寒くなったなと思っているうちに、季節は変わっている。

 うっかりしていると時間は、どんどん過ぎてゆくものだからやっかいだ。何でもいいから目的を持っていないと大切な事を置きざりにしてしまったりする。

 そんな事をつらつらと考えながら、この企画が持ち込まれた頃のことを思い出していた。三ケ月も前のことなんだが・・・。まずはこのマック奮闘記、そしてその直後には新しいパワーブックを使ってレコーディングをやってみませんか?

 全くのパソコンの素人の僕にレコーディングをさせてしまうという何とも大胆な話しに、正直いって戸惑ってしまった。しかし新しいことに挑戦するということは、その時間とかタイミングがとても大事だったりするんじゃないんだろうかと思い、ここはひとつやってみるしかないなと自分を奮い立たせ、とにかく未知の世界に足を踏み入れる決意をしたという訳です。

 そんな折りも折り、この「MAC奮闘記」を提案してくださったアップルの天野氏より「プロフエッショナルのためのMACINTOSHセミナー(音楽編)」に参加せしてみませんか?とのことで、早速参加申し込みをしたわけですが、ちょっと気になったのが「プロフェッショナルの・・・」という点。一体どういう人達が参加して来るんだろう?ミュージシャン、ミキサー、プログラマー、マニピュレーター、エンジニア、レコード会社等のディレクター、プロデューサーなどなど果たしてどういう事になるのか?いわゆる研究会というものか?コンピューターのことなど全く分からないのに、研究会なんてことをいわれても困ったことになったもんだ、などと思いつつもついに当日がやって来てしまった。

 初台のアップルのオフィスで開催されるということで新宿から京王線で初台まで行く途中、どうもミュージシャンらしい人が電車に乗っているんで、あ一これはセミナーに参加する人だな、そうかやっばリミュージシャンが多いんだよな、などと思いつつ会場へと向かった。新宿オペラシティ48階にあるアップルのオフィスヘいざ。

 で、高層ビルの特長なんだけど、ここも又わかりにくくて、どこが目的地へと通じるエレベーターなのか、それを見つけるのがひと苦労だ。通常は1階のロビーからオフィスヘ、と思うわけです。まずはそこで迷子、そしてオフィスヘ行くには2階のホールからのエレベーターでということが分かった。ここんところ新しいビルが出来るたびに、この手の同じあやまちというか新しいマニュアルを覚えなくてはいけない。今やビルの中でさえ、ある程度の地図というかピルの中の状況が分かっていないと、目的地に辿り着けない。パソコンを習うのにもマニュアル、ビルの中でもマニュアル、最近は家にいても、どこに行ってもとにかく説明書書を読まないと前に進めない。どうも、こういう問題ひとつをとってみても最近の世の中が複雑になっている原因か?などなど色々思いを巡らせながらセミナーの受付を通過し会場へと。

 会場の前方には大きなスクリーンが2面、そして来場者の顔ぷれといえばやはりスタジオ関係者が多いようだった。というのもここのところの20年近くというもの、僕自身もスタジオワークがメインの仕事で、といっても技術的なことをするのではなく、ま、ディレクターであったリプロデューサーであったりした都合上、顔見知りというか50人程の人数だったんだけど、半数くらいの人の顔には見覚えがあったんですが、どこでどういう状況でお会いしたのかを思い出せずにドキマギしてしまいました。一緒に仕事をしてくださった方には大変申し訳なく思っております。

 それはそうとして、新しいシステムの説明、解説などが続々と続いていったわけなんですが、ハッキリいって僕にとってどれもこれも始めてのことで、全部が新しいわけなんです。いろんなことがこのちいさな箱で出来るんだなどと、もうほとんど前時代的な感慨にふけりながら、全てに感心しながら、とても興味深く聞かせてもらいました。全部が終わってからたまたま僕の前席にいらした知り合いのミキサーの方に「これだけ出来ちゃうと、もうミキシングのコンソールとかいらないですね一。」って質問すると「ヘタをすると現存してるコンソールより良いかもしれないですね。」という返事が返ってきた。録音する場合、マイクロフォンとかスタジオとかの条件さえ整えば、とても素晴らしいシステムなんだということが分かりました。これで益々やる気が喚起された訳なんですが、まだまだ克服しなければいけない、覚えなければならない問題を思うと、未知は険しいけど心をひきしめてくれたセミナーでした。

 次回はいよいよ“パワーブック3400C/240"の登場なるか?

つづく


第4回“パワーブックを使ってレコーディングヘ・・・の入り口?”

1997年8月

 そしてやっとたどり着いた恵比寿にあるS氏のオフィスヘ、165C片手にドアを叩いた、というかエレベーターに乗り、5Fのボタンを押した。彼ともしばらくぶりということもあって、世間話をしつつ、この165Cっていうのは、いつ頃の機種なんだろうってことになった。

 電源を入れて、なんか色々なことを調べ始めたようだ。S氏「あ一これだと無理かなあ、容量がかなり足りないかもなあ~。」とかブツブツ言っている。彼としては一応、音楽用のソフトを色々と用意してくれていて、僕のパソコンの中で試してくれようとしていたらしいんだが、どうにも難しいようだった。その最中にも聞き慣れない言葉がポンポン出てきて、何か言ってるんだがどうもよく判らない。こちらとしてもウンウンとうなずいてはいるんだが、本当は良くわかっていない。が、言わんとしていることはなんとなくわかった。要するに機種が古くて、たとえ容量を増やしたとしても、音楽用として使うには、あまり適さないなあ。とのこと。この際、新しいものにした方が良いんじゃないか?ということになった。

 まあ、僕としてもパソコン自体の扱い方を憶えなくてはならない段階なので、一足飛びにソフトを使って何かをしようとということも出来ないんだから・・・。ここはまず、そのソフトというか彼のもっているものを使ってどんなことが出来るのかを、彼が創った作品を見せてもらいながら、説明してもらうことにした。というより、ドンドン説明してくれた。

 彼の扱っているアーティストのプロモーション用VTRについて、コトが始まった。TVなど流すいわば完成品になる前の段階の、いわゆるアイディアとして作った、そのおお元になったものを見せてもらった。

 音源の入れ方、素材の作り方、入れる場所、素材の合わせ方、映像とのからみの仕方等々、解説を交えながらのもので、とにかくテンポが速くて、ここでもまたうなづくばかり。プロモーション用として完成させる以前に、自分の思い描いた通りのものをまず作り見ることができる。さらにそのデータを元にしてそのまま完成品もできるし、また手直ししてより完成度の高いものに仕上げてゆくことも出来る。

 ウーンなるほど、自分の作ったデータをそのままプロユースの機材の中に、取り込むことが出来るとのこと。これは、音楽レコーディング時に、自宅で打ち込んだデータを、そのままスタジオの機材の中に流し込むのと同じことだと納得する。だけど実際にもっとすごい情報の量が手元でしかも瞬時に複合的に作業することが可能になっているんだろうななどなど、と思いつつ感心して見入っていた。

 これはすごい!僕は完全に魅きつけられてしまった。

 まずこれで音作りをし、映像をつけ、目分でもパソコンを使った作品を創ってみたいという衝動にかられた・・・。がしかし、未だパソコンの入口に来れた、いや立ったと思ったのに、最初からえらく高度なところを見せられてしまって・・・やややや、これは、とんでもないところに足を突っ込んでしまったもんだ、などと思いつつもやるしかないのだ。

 初心者向けのパソコンの本は、もうすでに数冊買い込んである。当初S氏を訪れたのは、もう少し基本的なものを教わろうと思っていたのだが、彼も僕が基本的な動かし方まで未知数であったとは思わなかったのであろう。それに彼の作品を見せられているうちに、とてもこれが分からない、あれが分からないなどと、とてもそんなことを開くことはできなかったのです。

 とにかく基礎訓練をちゃんとしなければ話しにならない。とりあえずは165Cを使って基礎を始めた・・・。(細かい訓練過程ははぶく)・・・。今現在、やっと文章を入力することができるまで来た。やっとパソコンのおもしろさがわかりつつある段階まで来れたような気がする、今日この頃であります。さて次回は、どこまで進むことが出来るのやら、僕も楽しみです。

 PS:実は未だというか内結にしておこうと思ったんですが(とは言うものの、今号のタイトルで発表済み?)、最新のパワーブックを使って、レコーディングをするという企画が、もうすでに決まっているのであります。この僕がパソコンを使ってレコーディングをするところまで行かねばならないということなのです・・・。ではまた・・・。


第3回“そして165Cの電源は入るか・・・”

1997年7月

 6月末のこの時期に、(風と雨もその時はたいしたことはなかったから、)中途半端な台風がきたもんだ、などと思いつつ家を出たのだが(あとでびっくりしたんだけど、いつも通り慣れている渋谷のセンター街の、入口のアーケードというか看板が倒れて犠牲者が出たというニュースを知ってア然とした)、タクシーに乗ったのがいけなかった。その日は現在、内藤やすこと組んでいるバンド「YAVOS」のライブののリハーサルの日でそのリハーサルの前に、前回この欄で紹介したS氏の事務所でパソコンのコーチをしてもらう初日ということで、少々荷物が多かったせいもあってついついタクシーに、ということになってしまったわけ。実をいうと僕は都心に出るには少々距離のある場所に住んでいて、電車などの交通機関を利用するとおおよそ1時間くらいはかかる距離で、普段は都心に出る時にはタクシーは使わないんだけど(マア、深夜に帰宅する場合、30分程で高速を利用すると六本木からでも15分位で家に着いてしまうとういのが頭にあって、少々混んでいてもそんなにはかからないだろうとタカをくくってしまった)、雨と風がこんなにすごいんだからと思いつつ(こういう日はタクシーが来ない)、約15分程待ったところでやっとのこと空車が来た。

 思い切り手を上げてタクシーを止めてホッとして乗り込んで、「恵比寿お願いします。」と言ったら(普通に行けば5~6千円は出るからいい客だと自負していた)、が運転手はドアを閉めずに(外はドシャ降り)、「えーっ!恵比寿ですか?」って、はっきりとイヤな顔をされてしまった。ツッケンドンな調子で「都心に行く道は混んでいて、どれくらいの時間がかかるかわかりませんヨ!」その声を無視して、閉めてくれないドアを僕は自分で勝手にドアを閉めてしまった。で、「いいから車出してよ。」僕も少々不機嫌に(やっとつかまえた空車なんだから)言ってしまった。シブシブ車は動きだした。走りだして10分程は順調に走っていて、運転手も「結構流れてますねェ。」なんて少々機嫌も直って会話をすることが出来るようになってきたら、運転手いわく「実はさっきまで都心にいたんですヨ。やっとの思いでここに戻ってきてホッとしてたところでお客さんだったんですヨ。実は正直言って、イヤだったんですよ。」なんて会話になって、僕の方も「すみませんでしたねェ~。」などと話していたら、「都心の混み具合は今日に限って異常ですよ、やっぱり台風の影響ですよね~。」なんて言うもんだから、「それはさっきまでのことでしょう?今の時間は混んでるかどうかわかんないじやないの?いいからとにかく急いでください。」と、お願いをしているハナから車が動かなくなった。運転手がため息をついている。完全に、マイッタナーというのが見え見え、そりや一そうだ、せっかく混雑を抜けて戻って来たんだから、僕もなんだか申し訳なくも思ったんだが、この天気とこの荷物じゃタクシー以外は考えられなかったんだから。

 それによく考えてみれば、タクシーってのは、客を乗せるのが仕事なんだから客がいちいち気を使うこともないんだ。そうだそうだと頭のどこかでは言っているんだが、いかにもこの人の良さそうな運転手だったんで、あまり強くも出ることが出来ず、僕も「ほんと運転手さんの言った通りすごいな~まいっちやいますねェ。」などと言わなくてもいいことまで口走ったり、別におべっかなんて使うこともないのに、ついつい勝手に口が何かを喋ってしまう。困ったもんだなと思いつつ、時計を見るともう一時間も走っている。目的地までまだ半分も来ていない。外は雨だ風だ、車は動かない。待ち合わせの時間は年後3時もう3時を回ってしまった。こちとらもイラついて来る。運転手に「迂回路はないのかなあ。幹線道路がこれじや、裏道にいくしかないでしょう。運転手さんの知ってる道あったら、少々回り道してもいいから急いでくれる?」そこで運転手「こんな時はこのまま走ってるほうがいいですよ。ヘタに裏道なんか入ったらかえって大変なことになったりするんですよ。やめたほうがいい。」が、現実に動いてないではないか。人間なんというかあせっているせいもあるけど、少しでも動いていてくれるのなら(マ、完全に止っている訳ではないのだが)、安心出来るんだが、こんなんじゃいつ着くんだか・・・。もうあせりが入ってきちゃってるから、「いいからどっか入って下さい、お願いします。」で、運転手も色々考えながら、「じやどこそこを通って行きましょう。」ってことになり、そうそうそれならすいてるかも知れない、行こう行こう、が、アー参ったヤバイ。裏道は一方通行が多かったりで抜け道がない。運転手の言った通り、混雑を避けた車が車が車が・・・。ひしめいている、そして止っている、動かない。さっきまではほんの少しでも動いていたのに。アーなんということだ。裏へ裏へとはまっていく。連絡を取らねば。

 こういう時には便利なんだよなあ、この携帯電話ってやつが。ちょっと前までは、公衆電話を探して車を止めて連絡、ということになったんだけど、これがまたイラつく。只でさえ急いでいるのに電話を求めて降りてかける、アーなんという時間の無駄、俺はこんなに急いでいるのに。ってな感じだった。しかし本当に便利な物が出来たもんだ。ありがたい気持ちになります。マ、携帯電話と、その周辺に関しては書きたいことが沢山あるんで、改めてこのページでということに。で、連絡はすぐに取れて事情を説明したらS氏は笑いながら心良く、「大文夫だよ。気にしないで。待ってるから。」ということで、ホッと胸をなでおろしたんだけど、まだまだ車の動きはにぶい。が、どういう訳かやはり電話をして安心したせいか、さっきまでのイライラがなくなって、まあ一仕方ないナってな気分にやっとなってきたら、なんと不思議なことに車が流れ出した。運転手も電話のやりとりを聞いていたらしく、「まあ、こんなもんでしょう。」連絡も取れて気持ちがスムーズになったんで道もスムーズになったというワケか?で、やっと目的地に着いたのは、自宅を出てから約2時間半もたっていた。料金も約2倍。降り際に運転手

「これからお客さんの乗ったところに戻るんですよ。」

「え一っなんで?」

「あそこが私の本拠地ですから。」

「でも、なんで?」

「実はお客さんが乗った時は丁度昼めしを食べに行くところで、回送にしようと思ったところでお客さんに止められて、あっしまった、と思ったんだけど一応ドアを開けたんです。ところが恵比寿って言われて、いや一まいったな、っていうのが本音でついあんな態度しちゃったんです。申し訳なかったです。」

「でも何故また戻るんですか?」

「だから昼めしですよ。」

「でもこの近所にだっていくらでも食べるところあるじゃないですか?」

「いやあまあいろいろとね。」

「あっそうですか。」

「長い時間お疲れさんでした。どうもありがとうございました。」

 バタン!ドアが閉まってそのあと本当にUターンして、もと来た道を帰って、いや戻って行ってしまった・・・。いや、やっぱり帰って行ったというほうが正しいかもしれないな。いろいろあるんだよなあ、いろいろ・・・。実はタクシーを利用することは多い方だと思うけど、2時間以上乗り続けたなんてのは記憶にないなあ。ま、いつも思うんだけどタクシーってのは密室で二人だけになってしまうんですヨね。だからたとえ短時間でもなるべく気持ち良く乗りたいと心がけてはいるんですが、その都度その都度、運転手は変わるし、気分も同じじゃないし、また僕自身もいつも精神的に安定してる訳じゃない。それと見ず知らずの人間、9分9厘が初対面となると・・・。やっぱりむずかしいよな人と人とのコミニュケーションってのは。長く付き合っていても、ほんのささいなことで終わってしまうこともあるくらいだから。そういえばこのタクシーの件も、いろいろ書きたいことがあるからまたの機会にということにしてと・・・。でもね、ほんの2時間半というか、2時間半もというべきか、なかなか出来ない経験をして本当は退屈な時間になるはずなんだけど、なんかとてもいい気分のひとときでした。さあて、いよいよ165Cの電源を入れる時がきました。いざ、S氏の待つ事務所へ・・・。


第2回“MACへ辿りつくまでの厳しい日々”

1997年6月

 ある日の夕方仕事の打合せで行った渋谷の喫茶店でのこと、そこに同席していたのが古くからの友人のS氏。僕が少し遅れてしまったんですが、席につくなり

「アップルのホームページ見たよ。」

ってなことになって仕事の話しはそっちのけで早々にそのページの内容についての質問をされてしまいました。前回の文章に出てくるアーティストは誰なの?と問われたんだけど、正に彼の予想していた通りの人物であったわけでした。で、そのアーティストなんだけどMACを扱う上達の速さに、彼いわく、

「たとえコーチというか先生について習ったとしてもずい分はやいよね。普通だったら、ちゃんとマスターするには一年くらいかかるんじゃないかな一。」

とのこと。

「ま、音楽の種類と又どのあたりまで創り上げるかによっても違うと思うけどね。」

ということで感心しきりのS氏でした。

 しかし、そのアーティストと話しをした時のことを少し補足すると

「自分は何から何までマスター出来たわけじゃなくて、ある意味では見切り発車的な状態でレコーディングに入ったわけで、音を組み立てて行く過程でいろんなことを覚えてゆくことになったんだヨ。まあ最終的に音が上がればいいわけだから、その都度疑問があったり出来ないことがあれば先生に聞きながらマスターしてゆくことになったんだ。」

とのこと。マ、世の中こういったことが結構多いんじゃないんだろうか。彼とのやりとりの中でも、色んな話しが出て来たんだけど、確かに何か物事を始める時ってのは何もかもを理解し解釈をしてから始める事なんて少ないんじゃないだろうか?例えばアマチュアの人がロックバンドをやろうってことになった時、各々の楽器をメンバー全員がちゃんと出来るなんてことはまずないだろうし、きっと現在プロでやってる人達でさえも、テクニックの追求をおこたることはないと思います。

 多分何事についても同じ事がいえると思うけど、ひとつのことをつきつめていけばいく程、どんどんむずかしい事柄が出て来るし、あげ句問題が山積してきて、もう先が見えなくなり、ついには放り出してしまいたくなることがしよっ中で、だからといってもうや一めた、なんて事をやってたら何をやっても中途半端になってしまう。で、そこから先に行くにはもう自分との戦いでしかない。この戦いをスタートさせざるを得ない。もうこれは強制的に自分に課す試練であるということか。実は昨年の今頃『原付』の免許を取得したんですが、その時もマネージヤーの進言で

「原付でもいいから免許持ってた方がいいですヨ、いろんな証明にも使えるし。」

ということで、

「そうだな、原付だったら大文夫かな、すぐ取れるだろう。」

ということになったんだけど、これが結構たいへん。実は今までに普通免許取得に関して何度となく「今度はとるぞ!」宣言をしてきた過去があったわけです。

「今度は取るぞ、今年こそは絶対取るぞ」

ということで、その都度友人と約束の期日を決めるんです。そしてそれまでに取れなければ罰金を払うということを取り決めるわけです。で、取った時の見返りとして、何かをもらったりしてもらったりするんですが、今までで一番よかった条件は

「もし取得出来たら、自動車学校の費用を全部払ってやるヨ。」

というもの。この時は燃えたんですが、結局取れずじまいで・・・。そういうことがずい分重なって一体いくら罰金を払ったことか・・・。しかし昨年の場合は違った。とにかくたとえ原付でも、ここらでとらなければヤバイ(別にヤバかないんだけど)精神的に強くありたいと心が願ったわけですね。で、早速教則本“一日で原付を取る法”とか“これ一冊でOK!君もすぐに原付に乗れる”とか、タイトルに乗せられて2~3冊買い込んで、さあーという気分になったんですが、まだ予定の試験の日までは時間があるし、何といっても“一日で原付を取る法”という一日でOKという強い味方があるという具合ですぐになまけぐせが出てしまう。しかしとりあえず、買ってきたんだからと中をのぞいてみたらこれが以外に大変。

 何が一日で取れる!だ。冗談じゃない。マ、全部覚えようってのが無理なことなんだけど、何か似たようなことがこまごまと書いてあって、頭がこんがらがってしまう。一応自分では記憶力は良い方だと自負していたんだが(年か?)模擬テストをやってみると、どうもいけない。(で、投げ出したくなってしまうんだな一。)が、ここ一番ふんばらねばと、そしてまたまた取れなければ罰金が・・・。前出の費用を全額持つと言った友人が、今度は「たとえ原付でも君には無理。もし取れたとしたら君のいうことは何でも聞いてやるヨ。」とのこと。が結果はなんとか合格で、久々に達成感というかささやかではあるが、幸せな気分を味わったという訳です。しかしもう取得して一年近く経ちますが、例の友人からは未だなにも聞き入れてもらっていない。

 話しはそれてしまいましたが、パソコンで再びあの達成感を味わいたい。道は険しいがとにかくスタートしなければ何事も始まらない。ここ―ケ月の間にPowerBook165Cのフタを開いて電源も入れたが、それ以上先に進まない。そこで一番最初の方に登場してもらったS氏なんですが、彼は僕らの仲間の中でももっとも早くパソコンをはじめた人なんですが、彼の影響で随分多くの人がパソコンをはじめたんじゃないかな?で、そのS氏がコーチをしてくれるという話しになって、いよいよパソコンとの戦いが、というか新たな自分との戦いが始まることになるわけです。

 来月のページではこのパソコンとの戦いの途中経過を書けるのか、はたまたその内容は本当に面白いのか?それとも全く別の内容でいくのか?僕自身も次回からは自分でページを開いて確認したいと思います。

つづく


第1回“ついにパソコンをやることになりそうだ”

1997年5月

 ファミコンだサターンだプレイステーションだなどなど、ここんところコンピュータゲーム機の数々と最近のTVCMで見られるゲームソフトの、そしてインターネットの面白さを説くTV番組や読み物、雑誌の特集の量の多さといったら僕のようにコンピュータを使えない人間にとってはまるっきり未知のもので、TVCMだけでなく、新聞、雑誌などの広告を見るたびに、実は興味はあるのだがついつい見て見ぬふりをしてしまう今日この頃なんですが・・・。

 こわいもの見たさで、もしコンピュータを始めようと高価な機材を買って、途中になって果たして覚えられるのか、イヤンなっちゃったらどうしようなどなど考えてしまう。というのも熱しやすく醒めやすいどうにもならない自分の性格を思うとふん切りがつかないでいたんですが・・・ いよいよそうもいかなくなってしまったらしい。ごらんのような状態で自分のページが開設されてしまったのである。実はもう半年程前から所属事務所のホームページの中での僕のコーナーはあったんですが(※「青山音組」をご参照のこと)、あっそうなんだ程度だったんですよ。しかし今回はどうもそうはいかない気分になってしまった。

 もともとレコーディング用機材として3年程前にMacのPowerBook 165Cという機種を買い求めたんだけど結局、他のレコーディング用機材につなげないということがわかって、これは使えないないということになって165Cは只の箱状態になって部屋の棚の上に眠っているということになってしまった。もちろんコンピュータとしての機能の問題はなかったから、この際“ちょっといじってみるか”と思い(ちよっとというこれが間違いの元であった)ぷ厚いマニュアルを開いて読み始めたのはいいんだけれど、どうにも思うように動いてくれない。おのずからイヤンなってしまい最初の数ページで投げ出してしまったといういまわしい過去があったのであります。その時に失った自信のくずれと挫折感が今までコンピュータを何となく遠ざけてしまっていたというのが本音というところである。

 しかし、今回のホームページの開設というのはとてもいい機会(コンピュータを始めるのに)になるんじゃないかと思っている。

 人間追いつめられると何とかしなくてはと思うもので(実はこの原稿も〆切の当日迄、全然アイディアが浮かばなかった)ま、別に今現在自分が追いつめられているという程ではないんだけど。なんていうか気分的に追いつめられたなぁ―という感じですね。いわゆるパソコンに追いつめられているという感じです。早い話そういう気分になりたがっているだけかも知れませんが・・・。

 まあこのページをごらんになっている人からすれば“なにをアホなこと言ってんだ”というところでしょうか!しかし、誰でも最初はこんなんだったんじゃないんだろ一か?ってなことを考え、自分で自分を叱咤激励して、さあ一始めるそという気分になった訳です。

 それともう一つの理由は、先日僕の古くからの友人でミュージシャンというかアーティストのある人物と電話で話していたら

「次回の俺のCDは全部自分で打ち込みをやり、基本的には一人でやったんだよ、あとはスタジオに入りいろんな楽器のダビングをやり、ポーカルやコーラスを入れて、それがすんだらアメリカでトラックダウンをやるんだよ」

ってな話をしてたんだけど。え一っ、ちよっと待てよ。彼は今年の始めの頃までコンピュータ全然わかんないんだって言ってたんですヨ。ところがそのあと彼の話を聞いていてビックリ!

「一日約10~12時間、だいたい2ヶ月間くらいコーチというか先生につきっきりでパソコンにしがみついていた」

って言うんだな一これが!こりや一まいった。あいつがやってるんだったら、こうなったらいよいよ俺もやんなきゃ一ならないだろ一ということになってしまった訳です。このアーティストのCDは夏先くらいに出るということなんで、実は僕はすごく楽しみにしてるんです。名前はちょっと出せないんですが、多分誰でもが知ってる有名なアーティストで、「え一っあの人が」ってな感じかもしれません。

 で、そのあと

「見本盤が出来てもやんないヨ、お前、店で俺のCD買って聞け!」

って言われてしまいました。言われなくてもちゃんと買うヨ!というのももともと彼はあるグループの一員だったんだけど、彼がソロアーティストになってからはずーっとレコードCDは買って聞いてきました。それというのもその電話の中で

「もともとはお前が言ったんだヨな一」

って言うんです。20数年前のことなんだけど。多分、一緒に飲んでた時だと思うけど

「もうじきツロアルバムの見本盤出来るから今度会うとき持ってくるから聞いてくれヨ!」

って言われたんだけど、僕は

「いいヨどうせ売れるかどうか判んないから売上げに協力するから、ちゃんと買うからサ」

ってな会話があった訳です。

 一一―それからというもの彼のレコードCDはおろかコンサートのチケットも全部買っているということになってしまいました。マァー当たり前のことなんですけど。同じ業界にいると互いに行ったり来たりの関係ですませてしまう場合が多いのも事実なんですよね。だから

「今度お前のCD出たら見本盤持ってくんなヨ。俺はちゃんと買うからな」

ってなところで電話は終わったんですが、ちよっと待てよ、これはうかうかしてらんないぞって気分がどんどん増幅している今月5月現在における私、大野真澄の心境であります。

 では又来月!!